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第29話

 スマホを出して地図アプリで確かめる。芙美子は自転車通学だったのだろうか。学校からはかなり距離がある。私は駅前に戻って、タクシー乗り場で待機していた一台に乗った。

「○○町のあたり、近くに児童公園がある……」

 運転手は心得たように車を発車させた。

 すぐに通りを入って、細い道に入り、細い川沿いの道を行く。そこから右に折れて住宅街に入る。古い住宅街の印象だ。ときおり新しい小さめのマンションが現れて消える。

「そこが児童公園ですよ」

 五分とかからなかった。あっという間。

 私はワンメーター分の料金を払ってタクシーを降りた。はす向かいにシーソーやブランコが申し訳なさそうに設置されただけの小さな公園があった。

 番地を確認する。

 4丁目、35番地……。

 すぐにたどり着いた。それは古い住宅街の中でもかなり貧しい様子のモルタルのアパートだった。二階A室と出ていた。果たして現在、ここに芙美子、あるいは芙美子の母親はいるのか。

 アパートの外階段を上がっていく。黒いさび付いた丸い手すり。上がったところに建物に入るためのドアがついていた。押すとかんたんに開いた。

 ドアに書かれている部屋の表示を見ていく。Aは予想通り、入ってすぐの場所だ。右手のくすんだモルタルのドアに「A」と書かれている。最初からあったものというより、それが壊れて手で書き直したような字だった。通路の左右に部屋があるので、向かい合わせは「B」。こちらはちゃんと表示の板が貼ってあった。

 案外簡単にたどり着いてしまった。私は思案する。今この部屋には誰かいるだろうか。外からはうかがえない。しかし、もし芙美子がまだこの部屋に住んでいるとしても、まだ帰宅は先だろう。さっき校内で会ったのだし、今日もおそらく芙美子は勤めに出るだろうから。 

 逡巡していても仕方がない。表札も呼び鈴さえもないその部屋のドアを、私はこぶしを握って軽く叩いた。何の反応もない。それは予想していた。中に電気の灯りがなかったから。一呼吸おいて、もう一度、今度は強めに叩く。

「すみません」

 呼びかけた。

 どうせ返事はないだろうと油断していた。

「はい」

 歳を重ねた女性の声が返事をした。

 芙美子の母親だろうか。だとすると、あの赤根眞理子の旦那にレイプされ、芙美子を産み落とした本人だということになる。私は中の様子をうかがった。誰かが玄関ドアに近づいてくる。

 やがて三和土に降りる気配がして、ドアが開けられた。そこに出てきた女性は、五十がらみの案外派手な女性だった。髪にはパーマをかけているが、手入れは雑のようで、ぱさぱさとしている。その顔をじっと見た。芙美子の面影は──なかった。

 女性は「誰? あなた」という顔をしている。私は慌てて視線を下げ、

「あの、秋山さんのお宅でしょうか」

 そう問うと、

「あなた、誰?」

 女性は同じ言葉の順番を入れ替えて聞き直した。

「湯原と申します。秋山芙美子さんの中学の同級生で」

 ここで名前を偽っても仕方がない。バレるならすぐにバレることだ。

「ああ。芙美ちゃんの」

 つながった。この女性は芙美子の何なのだろうか。

「芙美ちゃんならとっくに家を出たわよ」

 少し興味を覚えたようで、女性は軽い口調に変わった。

「ああそうですか。私も連絡がつかなくて、近くなので直接寄ってみたんですが」

「同窓会とかそういうやつ?」

「はい、そうです」

「あの子、中学の知り合いとは完全に連絡を断っているからね、分かると思うけど」

 私は相づちを打てずに黙った。女性は気がついたように、

「私はあの子の母親のいとこ。いとこっていっても幼馴染みたいなもんで、事情は知ってるの」

 「事情」という言葉を意味深に発音した。

「そうですか。では芙美子さんにはどうしたら連絡がとれますか」

「うん。実は私もよく知らない。新宿の方に引っ越して水商売みたいなことやってるみたいだけど」

 それは事実に合っている。

「では、芙美子さんのお母さまは」

「あんた、それ聞いてどうするの」

 呼び方が「あなた」から「あんた」に変わった。やや警戒心が滲んだ。私は慌てて、

「芙美子さんとは親しかったんです。それで、気になって」

「お母さんはね、施設」

「え」

「少しここがやられちゃってさ」

 そう言って、女性は自分の頭を指さした。私が悲壮な表情をつくると、

「でも芙美子はもう、母親のことなんてまったくかまってないから。施設にも会いにいかないし」

 そうだろう、と私は思う。

「私もさ、離婚して困ってたから、とりあえずこのアパート借りてるの。あの子の母親が施設に行くので空くでしょ。その後に借りたの。今は私の棲み処」

「そうでしたか。そうとも知らず、すみません」

 そろそろ引き際かと思い、暇をいう口上に移ろうとすると、

「別にいいわよ」

「え」

「あの子の母親が身ごもったとき、相談されたのが私。だから事情は知ってるし、芙美子の世話をしたこともあるの」

 ここまででもずいぶんの時間、玄関越しに話していた。私はもう帰ろうとしたが、この女性はそれを引き留めた。

「汚ないところだけど、入る? 何か知りたいことがあるんでしょ、芙美子のことで」

 第一印象とは違って妙に勘がいいこの女性に私は警戒心を抱きはじめていたが、好奇心には勝てなかった。


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