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第30話

 私は決意して部屋の中に入った。する訳はないのに、どこか芙美子の匂いが染みついているような気がする。彼女には悪いが、どこか饐えたような匂いがイメージされる。匂いを消している私とはどこか違った──。

 汚い畳。模様入りの障子ガラスで仕切られた台所と居間、兼寝室。布団が押し入れにも入れられず、たたまれて置かれている。一組。この女性の言うことは本当だろう。芙美子の母はもういない。そして芙美子もここへは帰らない。

「あんたみたいなお嬢さんがうちの芙美子の友人?」

 徐に吐き出すように女性は言う。「芙美ちゃん」から「芙美子」に呼び方が変わっていた。

「どういう事情か知らないけど、あの子に友人がいたなんて思えない。わざわざ誘いにくるような?」

「でも、そうなんです」

 私は素っ気なく答えた。

「芙美子さんの連絡先は分かりますか」

 電話がつながる関係なのに、尋ねてみる。

「さあね、知らないよ」

「もう、まったく関係がないのですか」

「そう、この部屋を安く借りられたというだけ」

 少し沈黙した。もう少し深く切り込んでみたい。そういう欲求が湧く。

「芙美子さんのお父さまは」

「はっ、『お父さま』!」

 吐き捨てるように女性は言った。

「あんた、何のつもり。本当に芙美子の同級生なら、あの子の父親がどういう奴かなんて知ってるだろう」

 私は猫を被ることにした。しおれたような声音を出す。

「じゃあ、あの噂は本当だったんですね。あの、芙美子さんの出生の」

「何を今さら」

「私は信じたくなかったんです。でも、そうなんですね」

「よっぽどおめでたい生まれ育ちのようだね」

「え」

「あの中学校にあんたみたいなお嬢さんが本当に通っていたなんて信じられない。けど、そういうこともあるのか」

 私は内心で苦笑した。思ったよりも御しやすい相手のようだ。

「芙美子さんの父親は誰かご存知なんですか」

「察しはついているよ」

「あの……噂通りなら、修道院の?」

「何だ、知ってるんじゃないか。虫も殺さぬような顔して、けっこう下衆の勘繰りはあるようだね」

 そう言いながら、女性はすっかり気持ちが高揚している。

「あの子、気の毒といえば気の毒だけど」

「ええ」

「でもしようがないんじゃないかな。人は生まれる場所を選べないってよく言うしね」

「……」

「芙美子さんのお母さまはその、施設にいらっしゃると仰いましたが、芙美子さんを育てているときはどんな感じだったんですか」

「あの人……芙美子の母親ね、雅美っていうの、まあちゃんて呼んでるんだけど、あの人はあの人なりに精一杯やっていたとは思うよ、私は」

「え」

「貧乏で侮辱されて、何もいいことなんてない中、あんなかわいげのない娘をよく大事に育ててたよ」

 少し意外だった。芙美子の母親は芙美子を大事に育てていたのか。もう少し荒んだものを想定していた私はがぜん興味が湧く。

「家では手縫いのかわいい服を着せたりしてね。貧しい中、服もろくに買ってやれなかったんだろうけど、せめて家の中でだけでもいい思いをさせたかったんじゃないの」

「そうだったんですか。それは、安心しました」

「あんたが安心することはないじゃないか。芙美子も母親は好きだったろうね。私にはほとんど懐かない、引っ込み思案の子だったけど」

「その手縫いの服って、今もあるんですか」

「ああ。この家に私が引っ越したときはなかったよ。残置物は私が整理したから分かる。芙美子の昔の教科書とか工作とか絵とかはとってあったけど、引き取り手もいないから私が捨てた。母親はもうアレだからね」

 私は想像する。持ち物にさんざんいたずら書きをされたりしていた芙美子だが、その中で無事な・無傷なものは家に持ち帰り、母親に見せていた。そのときの表情はどんなだったのだろう。

「仲の良い親子、だったのですか」

「ああ、仲は良かったと思うよ」

 私は芙美子に、子供時代にわずかにあった幸福の痕跡を感じとっていなかった。だから勝手に「家族のいる地獄」を想像した。けれど、少しイメージの修正をする必要があるのかもしれない。

「あっと、そろそろ帰ってくれる? 私も仕事に出る時間だから」

「はい」

 私はおとなしく帰る素振りをした。振りかえって見てみると、女性は押入れをあけ、そこにクローゼットふうにつくられた空間から自分の衣類を取りだすところだった。本人はおしゃれのつもりかもしれないが、大柄の花模様、沈んだ色。どういう仕事かは聞くいわれもないし聞かなかったが、大体の察しはつく。

 軽い溜息をついて私はそこを出た。外階段を降りながら、修道院の後輩たちの行く末を思う。あの子たちがああいう境遇、いやもっと悲惨な境遇に落ちていく状況を、私は暗然と思い浮かべる。もう何度となく繰り返してきたことだ。

 この世には、憎しみを持って、憎しみの力で生きていい人間たちがいる。再び私はその意を強くした。

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