陽鎧館とは、国が用意した軍関係者のための宿泊施設だ。その歴史は古く、原型となった旅館は百年以上前に立てられ、今では地上八階、地下三階の、国内でも有数の規模のホテルとなった。だが、先の戦争で一部が崩れ、使用できない状態が続いていた。
無数のガラスに彩られたラウンジ。歴史に名を遺す軍人たちの肖像画が並ぶロビー。芽吹に宛がわれた部屋は、六階にある。二十八にして一等勲章を授与された彼には、最も高級な部屋が与えられた。
だが、一人で寝るにはあまりにも広い。居場所もなくて、隼人とラウンジでケーキを食べていた。大きな窓の向こうには月が浮かんでいる。
「赫天の推力が三割増しになったら、何とかなりますかねぇ」
「幾らか戦闘データを解析させたけど、多分それじゃ足りない。火力の抜本的な強化が必要だ」
マヌーバのことであったり、見果てぬ夢であったり、二人の話題は尽きない。その近くに、軍姿の男が近づいた。
「大原芽吹少佐、ですね?」
「あなたは?」
「
国立航空技術廠。赫灼騎兵や空中戦艦などの航空兵器の研究・開発を行う部署だ。
「構いませんが……何か?」
鞭はそう背の高い男ではなく、贅肉も筋肉もない。黒い眼鏡の奥には知性を匂わせる、ある意味では衒学的な雰囲気を纏った男だった。
「あなた方に見てもらいたいものがありまして……」
席に着いた彼は持っていた鞄から、一枚の写真を取り出す。赤と白、斧槍を握った赫灼騎兵の写真だ。背中には大型の四角いスラスタユニットが装備され、その機動性を見る者に思わせる。
「ゼッセノーア。ドグラ連邦の機体です」
概ね、芽吹は相手の言わんとしている所を察した。しかし、隼人は十の内一も理解できなかった。
「……これの設計データが、帝国に流出した可能性があります」
「そりゃよくあることじゃないっすか」
「連邦の所持していた高効率抽出器が、帝国に渡ったということです」
フォークが床に落ちる。
「じゃ、あいつらも新型機を作り始めるんじゃ……」
「こちらの写真を」
次に出されたのは、水色のクーウナ。しかし、その背にあるのは、ゼッセノーアのものと同じ推進機だった。
「実機が持ち出された?」
「流石歴戦のパイロットだ。勘がいいですね」
写真を戻し、鞭は少佐に満足げな視線を送りながらテーブルの上で指を組む。
「前線のパイロットより耳早い技術屋、ですか。何者です?」
「情報技術官……まあ、赫灼騎兵の運用・交戦データの解析をやっている立場でしてね。色々と知れるのですよ」
その言葉の裏で、隼人は代わりのフォークを受け取っていた。
「今回は、紅潮島の部隊からデータを受け取りました。解析そのものはまだ完了していませんが……少しでも早くあなたに伝えたかった」
「黒鷲だから、ですか?」
「個人的な信頼、というだけではご不満で?」
何故この二人の間に張り詰めた空気が漂っているのか、大尉には理解が及ばなかった。
「……このラウンジに入っている以上は軍人だとわかります。しかし、軍人だからという理由で無条件に信頼するほど、俺は馬鹿ではありません。最新の情報と雖も、それを横流しするような人間を、俺は信じ切れません」
「やはり、私の見込んだ通りの人だ。こちらを」
鞭は鞄から二封の茶封筒を取り出す。
「情報局に出入りするための、許可証です。今話した情報の真偽を確かめたいのなら、こちらへ」
そう伝えて立ち上がった彼は、軽く手を挙げてウェイターを呼んだ。
「ここは私が支払います。期待していますよ」
残された二人は、顔を見合わせて席を立つ。
「さらっとやってましたけど、結構な値段っすよね」
部下の耳打ちに、隊長は顔を少しクシャッと歪める。
「明日、行ってみる?」
「そうっすね。どうせ暇ですし……あと、奢ってもらった以上行かないってのも、なんかアレですもん」
エレベータで部屋に戻った芽吹は、軍服のネクタイを緩め、机の上の送受話器を取った。白いボタンを順に押していき、かける。
「はい、大原です」
「エリカ?」
その声かけの後、少し間を置いて、
「パパ!」
と元気な声が聞こえてきた。
「湊、怪我はしてないね?」
「うん!」
向こうで何らかの会話があったのか、そこから無言が続いた。
「あなた、帰りは一週間ほど後なんでしょう?」
「そうだね。もしかしたら一日くらい早くなるかも」
「雑な食事はダメよ」
「俺だって体が資本なことはわかってるよ。大丈夫、安心して」
夜にケーキを食べたことは黙っておく。
「昇陽、変わったのかしら」
「街の方には行ってないよ。工廠は男臭いけど」
「先の戦争で減った男手も、元通りになったってことね」
戦争が終わるまでは、女や学生が工場で働いていた。前線にいた技師たちが戻ってきて、工場の稼働状況が戦前の水準になるのには、五年かかった。
「空襲警報が出たりは……」
「してないわ。ザハッドナの動きも落ち着いているみたい」
終戦後、テレビ局は増えた。国営メディアに頼らない、自由で公正な報道を行うという目標を掲げた民間局が立ち上がったのだ。それが、手垢のついたお笑いを放送するようになったのは、そう終戦から時間を経ていない頃のことだった。
だとしても、都合の悪い情報を隠したがる、国営放送の姿勢を崩したことは事実だ。軍からのリークを受けたメディアが、天炎島の実情を報道している。それが齎すのは、虚飾に塗れた国家を丸裸にする時代だ。
「あなたは、無事なのよね」
「何度も言ったじゃないか。コックピット回りにダメージは受けてない」
黒鷲隊から死者は出なかったものの、白狼隊は一人死んだらしい、ということを彼は聞いていた。そのパイロットが、いつか出会った若い彼女なのかと考えて、やめた。そういうアートマンの暴走は、隊長には無用だ。
「信じてるわ。一緒に前線を駆け抜けたもの。でも……不安になるの」
軍人であるからには逃げ得ない死神という存在。怯えるのもわかる。
「俺は生きるよ。何があっても」
死を司る神が大鉈を振るって、有象無象の人生という雑木林を切り拓くのだとすれば、それはいつか必ず訪れる。だが、芽吹は、少しでも長く走り続けるつもりだった。
「ごめんなさい、笑が泣き出しちゃった。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
静寂が訪れる。聞かれてはまずい会話をすることを想定したこの部屋は、防音設備にかなりの金がかかっている。それ故に、ここだけが世界から隔絶されたような感覚にさえ陥るのだ。
(少し、歩いてくるか)
カジュアルな服に着替え、夜の街に歩き出した。
◆
「ダヌイェルの搬入はどうか」
カジャナが送受話器に向かって言う。
「滞りなく。二時間もすれば、四隻とも作業は完了します」
少し高めの男声が返ってくる。
「了解。一時間で終わらせろ」
返事は待たず、ガチャリ。
「艦長も無理を言うねえ」
障壁の状態を監視しているシギニが言う。窓の外では黒い障壁が島を覆っていた。
「障壁の現状維持は残り一時間半が限界なのだろう?」
「ま、そうだな。それ以上やると、攻撃があった時に動けなくなる」
障壁を光すら通さないものに書き換え、補給の邪魔をされないようにしているのだ。それには莫大な魔力があり、四隻のエネルギーを合わせても精々五時間が関の山だ。
「しっかし、全部の機体をクーウナに置き換えるとはねえ」
彼は裸のイラストを触りながら口にする。
「皇国が高官の身代金を払ってくれるようでな、奮発したと聞く」
「こないだの第一次攻撃で、救出を諦めたってことか。このままヤガも返してくれりゃいいんだが」
「それはどうだろうな」
市長を引き渡す対価として、ザハッドナは赫灼騎兵十数機分の金を得た。このまま戦力を維持できれば、いずれヤガ地方の返還にも応じる──と、カジャナは願っていた。
そこに、オが入ってくる。
「この船の搬入は完了した。動くぞ」
血涙が流れているような仮面の下から、まだ若い声がする。
「了解。艦長から各員へ。本艦はこれよりコード『リア』に移る。所定の業務を実行せよ」
通信機を肘掛の先に置き、姿勢を正す。
「出港!」