風のトンネルは、主要なものに名前がつけられている。紅雀が抑えたのはその内最も広い、銀蛇トンネルだ。刳り抜かれたような暴君海の北方、ドグラ連邦との国境にほど近い所を東西に横切る、天炎島への最短ルートである。
魔導大戦が起こったのは、およそ千年前。その影響で大陸中部は大きく地形を変え、残った陸地が西部諸島であると言われている。だが、当時存在していた国家や文明の歴史は、大戦後二百年に亘る混乱期の中で失われてしまった。
東陽皇国は、自身がそんな大戦の更に千年昔から存在している国であると主張している。それが真実であるか否かは議論の最中にあるが、少なくとも、大戦から約三百年後に成立したハーウ帝国より古いのは事実だ。
両国が争い続けている理由は、そういうところにある。互いに相容れぬ歴史の、どちらが正統かを決める争いなのだ。
そして、国民は祖国の歴史こそ正しいのだと思っている。軍人ともなれば、猶更だった。
「定時連絡。試作型探知機に反応なし」
紅雀からの無線を受けながら、芽吹は荒れ狂う海を眺めていた。青い空には雲一つないというのに、風だけが吹く。
「定時連絡了解。こちら黒鷲一番。交代の時間故、帰投します」
一番と二番は、上がってきた三番及び四番とすれ違う。戦艦の後部デッキに降着し、パイロット用の待機室へ。
「十二人でサイクルってのも、大変すね」
一足早かった隼人は適当な椅子に座って、水を飲んでいた。その向かいに芽吹は腰掛ける。
「仕方ないよ。赫天部隊を全部使うわけにもいかない」
後の二人は睡眠を取っている。一日四時間の偵察を行い、八時間の睡眠をしっかり取り、後の十二時間を待機任務として過ごす。暫く家に帰れないこともあって、芽吹には中々のストレスだった。
「奥さん、待ってるんじゃないっすか?」
「ホントだよ。私用の通信なんてできるわけないし……湊も笑も怪我してなきゃいいけど」
「お子さん元気ですもんね」
「笑もつかまり立ちするようになったんだ。見てよ、これその写真」
懐のポケットから一葉の写真を取り出す。確かに、笑が手押し車で体を支えて立っていた。エリカによく似た、金色の髪だ。
「オレも結婚したくなってきちゃいましたよ」
「聞いたよ、絶対死なない優良物件って自慢してること」
「事実じゃないっすか」
何の遠慮も屈託もなく、隼人はそう言い切った。
「油断してると足元掬われるよ」
「確信っすよ。隊長だって死ぬわけないですし」
そうだったらどんなに嬉しいか、と口には出さず、困ったような笑みで芽吹は誤魔化した。
「あ、そうだ。帰ったら合コン行く予定なんすけど、名前出していいっすか?」
「好きにしていいよ。迷惑がかからないようにしてくれれば」
「やりい! 大原芽吹の右腕って言えば、どんな美女だって一本釣りっすよ!」
「でも彼女の一人もできてないんだろ?」
興奮した様子だった隼人は、途端に落ち込み始めた。肩をがっくり落とし、溜息を一つ。
「そうなんすよ。やっぱパイロットって不安に思われるんすかね」
「実戦がない僻地ならともかく、俺たちは最前線だからね。帰ってこないんじゃないかって思いは、わかるよ」
「でも、隊長はお子さんまでいるじゃないっすか」
「それはそうなんだけどね……」
少し決まりの悪い思いをしている芽吹の目は、コップの中の水面を見る。
「前線、つっても今じゃどこが前線なんだか……昇陽にいきなりやってくるかもしれない、ってなったらどこにいたって安心できないっすよねえ」
「うん。明曉島にも現れたしね。あいつらの目的、単にヤガを返せってだけじゃないかもしれない」
「例えば?」
「この国そのものの打倒」
それを聞いた隼人は、笑いをこらえきれなかった。
「いや、無理っすよ。テロリストだってもっとまともな思考回路してますって」
ゲラゲラと腹を抱えていた彼は、隊長の視線の真面目なことに、口を閉ざす。
「マジなんすか」
「マジだ。あいつらは、きっと皇国を倒せると考えている。九一式じゃ相手にならない新型を作り出したのだって、正面から戦争をするつもりだからだ」
隼人の喉の奥から息が漏れた。
「戦艦四隻……一隻当たり二十四機と見積もって、九十六機。立派な軍隊だよ」
先の戦争で、翠南島を奪還するために投入された皇国の赫灼騎兵が六十機であることを考えれば、その規模は異常と言っていい。数字の根拠は特にない。強いて言うならば、勘だ。
「ま、でも焔輝の前には紙屑っすよ。オレたち最強ですもん」
調子よく言ってのける隼人だが、予想以上に上司が真剣な顔をしているのを見て、ばつの悪い心地になった。
「隼人、楽観的になりすぎてはだめだ。ペシミスティックになれとは言わないけど、過信すれば死ぬ」
「……うす」
歴戦のパイロットが重傷を負う所を、芽吹は見ている。前戦争終結時のメンバーが油断していたとは思わないが、その事実が彼に緊張感を与えていた。
そんな折、光輝と斗真が待機室に入ってきた。
「お疲れ様です。待機任務に入ります」
斗真は敬礼しながら言った。
「了解。俺たちは休んでくるよ」
八時間の休息に、二人は沈んだ。
◆
皇国が輸送ルートを阻んでいるという事実は、一日ほどでカムルの耳に入った。
「なるほど、三部隊で三つのトンネルを塞いだか……しかし、ステルスなのだろう?」
「恐らく、魔力攪乱膜の生み出す揺らぎを検知できるようになったのでしょう。急ごしらえかもしれませんが、脅威にはなります」
艦橋でカジャナ艦長と話していた彼女は、そっと顎を撫でる。血涙の仮面はそのままだ。腰のサーベルも。
「敵の戦力はどうか」
「一つのトンネルにつき、戦艦二隻。赫灼騎兵十二機でしょう。赫天部隊であることも考慮すれば……」
「こちらも迂闊には動けん、か」
戦争終結から十年の間に、前線を知る者は戦場から遠ざかりつつある。だが、赫天を与えられることは、そのパイロットが実力者であることの証明だ。実戦経験が少なかろうが、腕はいいはず。
「船の数が足りんな。ヴィアトレム級を確保できないか」
「難しいですね。アフェム級四隻を手配することが、老人の限界なのでしょう」
隔靴掻痒の思いをしながら、彼女は左手を柄頭に置いた。
「芽吹はどのトンネルにいる」
「さあ……ですが、彼の実力を鑑みれば、最も太い銀蛇トンネルが妥当でしょう」
「なら、アフェムは銀蛇へ向かえ。そこさえ風穴をあければ、どうにかなる」
「天炎島の防衛は──」
「黒鷲隊なしであいつらが仕掛けてくるとは思えん」
すっぱりと言ってしまう若き──いや、若すぎる隊長に、一抹の不安を覚えながら艦長は通信機を取った。
「艦長から各員へ。出港準備。本艦はこれより、補給ルートの確保へ向かう」
五十分後、浮かび上がった戦艦は、西へ向かう。その先に敵がいることを科君臣して。
見せびらかすような航行は、まもなく紅雀にキャッチされる。丁度上がっていた芽吹と隼人は、輸送艦捜索を切り上げ、迎撃の準備を整えた。
「こちら紅雀。敵機の魔力反応を捉えた。焔輝は全機上がらせる。船を沈めることより、生き残ることを優先してくれ」
「了解。赫天部隊はどうです」
「これも発進準備中だそうだ。耐えてくれ」
後方から接近する、三番と四番。前方からはダヌイェル、オリジナルのクーウナ、ハミンナ。紫や水色の反応はなかった。
(一隻で来たのか? 舐められたな……)
最前線の二機は、全魔力砲を前方に向ける。
「斉射!」
七門が、二機。計十四本の赤い光は、不意打ち的にザハッドナの部隊を襲った。炸裂する緑が、幾つかだ。回避に成功した手練れは一挙に距離を詰め、剣戟の間合いに入る。
芽吹は、青を待っていた。