走って、学んで、懸垂をして、学んで。時にはバーベルを持ち上げたり、重りを詰めこんだリュックサックを背負ってグラウンドを走ったり、はたまた身体強化魔術や応急処置用の魔術を習得したりということもあった。そのどれも、許可のない魔術の使用は禁じられていた。
総じて、基礎知識の獲得と体力錬成を主眼とした日々だった。そんな彼らに、一つの試練が与えられる。
七月も終わり、夏季休暇直前の午前五時、二十キログラムの背嚢を持ってどこかの山の麓に集められた彼らは、教官の前で気を付けの姿勢をとっていた。青い軍服に、キャップ。
「先週通告した通り、行軍訓練を行う。空軍士官に不要なものと思うなよ! 強化魔法があったとして、根本的な体力がなければ、最後の最後で踏ん張りきれない! そして、軍人としての覚悟を試すものでもある! いいな!」
「了解!」
学生たちは揃って声を上げた。
「出発!」
本訓練の行程は、片道二十キロメートル。それを日没前に往復し、戻ってこなければならない。
昇陽を覆う結界は、何も都市部だけをカバーしているわけではない。周辺地域も含め、山林も存在している。故に、古代兵器に襲われる心配はなかった。
だとして、その道のりが容易になるわけではない。生憎、その日は例年以上に日差しの強い日であったし、風もなかった。
先頭を行くのは、湊だ。学生たちは規定のルートを通り、待ち構える教官に名乗らなければならない。
「大原湊」
彼はそう言った。
「声が小さい!」
「大原湊!」
「よし! オーバーペースには気をつけろ!」
次いで、セラ。彼女もまた声の小ささを指摘された。優が通過したのは、暫く後のことだった。
山の天気は変わりやすいと言う。その事実を、湊は雨粒に帽子を叩かれて理解した。背嚢を置き、雨具を着る。そして歩き出す。
十五キロ地点。雨は強くなり続ける。そんな彼を待っていたのは岩肌が露になった、崖際の道だった。
(少し待った方がいいな)
少し離れた空は青い。俄雨だと判断して、彼は都合よくあった洞穴に避難した。
滝のような雨だった。地面に水滴を叩きつけるように降りしきる。無理に歩いていれば、足を滑らせていただろう。
背嚢の横に刺さった水筒で、塩と砂糖を混ぜた水を飲む。途中で補給はない。大事にしなくてはならない。
その前を、一人の女子が進もうとしていた。
「やめた方がいいよ」
彼が声をかけて、振り向いてきたその顔はセラだった。
「……そう」
とだけ答え、彼女は先を急いでいた。馬鹿なやつ、と思いながら、湊は雨宿りを続けた。だが、直後、
「キャアッ!」
という声と共に、石の擦れる音がした。
「馬鹿なやつッ……!」
彼は急いで雨の中に飛び出した。崖から身を乗り出せば、数メートルほど下にセラが倒れている。
本来、魔術の使用は禁じられていた。だが、級友を見逃すわけにもいかない。湊は魔力で肉体を強化し、崖を滑り降りた。
「生きてる⁉」
「ええ、ええ……」
呻くような声だ。左脚が折れている。一先ず治癒魔法で鎮痛処置を行い、周りを見渡す。木の下に何本か枝が落ちていた。彼は手早く添え木を行い、セラを担ぎ上げる。
「揺れるよ」
「……ごめんなさい」
セラは、嫌な視線を何度も受けた。皇国人らしくない容姿と、首席という実績。その二つを噛み合わせようと僻みが生み出したのは、裏口入学という疑いだった。
無論、そのような事実はない。彼女は実力でその地位を勝ち取った。だが、それが気に食わない人間というのはいる。
そんな人間は、得てして大したことがない。噂を流したのも、成績としてはぱっとしない者たちだった。
しかし、陰湿な視線が彼女の背中を焼く。男子よりも女子の方にその傾向はあった。楓は気づいてすらいない。打ち明けることもできず、ただ、沈んでいた。
そうやって悔しさを噛み締めている間に、彼女は中継地点で教官に引き渡された。感謝も言えないまま、車に乗せられた。
結果から言って、湊とセラは失格となった。前者は身体強化魔術の使用、後者は怪我による続行不能だ。
そんな彼らは、夏季休暇の初日に不本意な補習を受けることになった。
「ごめんなさない。私のせいで」
教官を教室で待つ間、セラが隣の湊にそう謝罪した。
「別に……目の前で怪我したのに、放っておくわけにはいかないよ」
彼女が言葉を返そうとするところで、大人が入ってきた。
補習の内容は、それほど重要なものではなかった。規則は規則であるということ、危険な道を敢えて選ばないこと。そんなところだ。
「しっかしまあ……お前たち二人が失格か。想像もしていなかった」
第一中隊担当の教官、飛騨浩二が言う。
「……軍隊に於いて、ルールというのは何より優先される。だから、軍人として湊の行動を評価するわけにはいかない。だが……一人の教師としては、感謝している」
雑談にも近い、軍人の心構えを説く講義は、一コマで完結した。
自室に戻った湊を待っていたのは、トランクケースに教科書を入れている優の姿だった。
「何してんの?」
「実家に帰るのさ。君は? 補習は終わったのか?」
「まあ、うん。僕は実家昇陽だから、気が向いたら帰ろうかなって」
優は手を止め、ベッドに腰掛ける。
「セラくんを助けて失格。いいじゃないか」
「いいって、何が?」
「君は自分の成績より、一人のクラスメイトの命を優先したんだろう? 正しい行いだよ」
妙に恥ずかしくて、湊は後頭部を掻いた。
「君がルームメイトでよかった」
「そんな言われてもな……優はどこに帰るの?」
「大望地方に。今夜の定期便で」
今、東陽皇国の都市を結んでいるのは、空中戦艦を改造した武装輸送艦による定期便だ。
「さて、そろそろ行かなければ。手荷物検査に時間がかかるからな」
「じゃ、また今度」
「ああ、元気で」
一人になった部屋にいるのも居心地が悪く、とりあえず外に出た。夏季休暇の間は、外出許可が必要ない。何とはなしに街に繰り出したはいいものの、雄牛もいないで遊び方を見つけることはできなかった。
三日後。二年もほとんどが実家に帰った。シンと静まり返った寮を出て、ゆく当てもなく散歩。だが、今日は思いがけぬ出会いがあった。
「セラ」
何気なく入った喫茶店で、セラと会ったのだ。冷房の効いた空間で、汗で濡れたTシャツの襟元をパタパタとさせながら、湊は彼女と目を合わせて静止した。
「……どうぞ?」
向かいの席を指され、彼は恥ずかし気に座った。しかし、それ以上にセラの顔は明るくなかった。
「ご注文は」
「カフェオレ。アイスで」
「畏まりました」
どちらも、うまく言葉を拾い上げることができなかった。ただ無言で、洒落た空間を共有し合う。それだけだった。
「……ありがとう」
セラが唐突に言った。
「私、ここ最近、女子の間で噂が立ってたの。裏口入学したんじゃないか、って」
「勉強できるのは事実だろ。気にする必要なんてなかった」
「でも、怖くなったのよ。だから、誰よりも速くゴールして、黙らせたかった」
「それで、雨の中を進んだ」
頷く。
「聞いてほしいの、私のこと」
◆
大望地方西端、青龍港基地。そこに、黒鷲隊がいる。
「芽吹大佐の息子が、行軍訓練で失格か」
その隊長──鈴木玲奈は、緑茶を片手に報告書を読みながら言った。
「だが、ただの失格ではない」
拓海が補足する。
「骨折したクラスメイトを助けるために魔術を使用して失格、とのことだ」
「……らしいじゃないか」
玲奈の口調は、かなり変わっていた。媚びるような声音ではなく、淡々と、どこか冬弥に似てきていた。
「指名も考えておきたい」
「……好きにするといい」
学校から上がってきた報告書を放置し、彼女は立ち上がる。行く先は、格納庫。