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かつてのこと

「聞いてほしいの、私のこと」


 喫茶店で、湊はセラからそう言われた。ちょうど冷たいカフェラテも届く。


「……いいよ」


 牛乳が多めで、甘すぎるくらいのそれ。


「そうね、どこから話したらいいかしら──まず、生い立ちでしょうね」


 彼女の手にはドロドロの、コールタールのようなコーヒーがある。


「私、ヴォウの生まれなの」


 ヴォウ共和国。ハーウ帝国から南西に位置する国家であり、同国から独立した歴史を持つ国家だ。今は首都ユチアを含めた東部を帝国によって占領されている。


「ザハッドナが攻めてきた時、お祖父ちゃんと一緒に皇国に亡命した。だから、ヴォウにいた頃の記憶なんてない。両親は逃げずに死んだ、って聞いてる」

「だから、それをどこからか知った連中が君を嗤っていた」


 頷き。


「馬鹿に付き合う必要はないよ」


 湊が言ったのと同時に、氷が溶けてカランという音がした。


「馬鹿と真面目に向き合っても、馬鹿になるだけだ。言うだろ、朱に交わればなんとやら、って」

「随分強い言葉を使うのね」

「世の中いっぱいいるんだよ、何も考えてないやつ。自分より優れた人間は、何かずるいことをしてると思うやつ。そして、気に食わないなら下らない言いがかりをつけるやつ」


 彼も見てきた。大原芽吹の息子というだけで、世界をザハッドナから救うという崇高な理想を掲げているという憶測を立てて、それを前提にする人間。一方で、芽吹の息子だから優遇されているのだというやっかみも。


「お父さんのこと、嫌い?」

「好きになる機会がなかった。それだけだよ。でも、今は君の話だろ」

「そうね……私は、幼年学校に入りたかった。でも、背が低くて。だから、普通の中学通って、塾にも行った。思えばお祖父ちゃんにかなり負担をかけてしまったわ」


 ストローから、湊は茶色い液体を吸う。


「僕も、母に言われて幼年学校には行かなかった。軍に入る以外の生き方を見つける必要がある、って。でも……」

「結局、軍人になる道を選んだ」

「うん。中学、どこだった?」

「三中」


 湊は一中だった。


「私はね、お祖父ちゃんが亡くなる前に故郷に帰してあげたいの。もう思い出なんて残ってないかもしれないけれど」


 彼は優の言葉を思い出す。そして自分もそうなのだ、と再確認する。


「えっと、大原──」

「湊でいいよ。僕も呼び捨てにしてるし」

「湊は、実家に戻った?」

「いや。どうせ昇陽だし、急ぐことないかと思って」


 砂糖がたっぷり入ったコーヒーを、セラは少しずつ飲んでいる。


「どんな家に住んでるの?」

「ただのアパート。恩給もあるし、親父の遺産もある。でも、母が言うんだ。贅沢に慣れるな、って」

「正しいわ。いつザハッドナが攻撃を仕掛けてくるかわからないもの」


 主要都市を覆う障壁は、かなり複雑な条件設定がなされている。大気や雨、雪などは通すし、野生動物も行き来できる。登録された兵器も通行可能。だが、古代兵器の魔力炉が発するパターンだけは通さなかった。


 それが、いつ崩れるか。帝国が新型兵器を開発して障壁を打ち破ってくるか、誰もが怯えていた。


「長生きしましょうね」

「死ぬつもりはないよ」


 普段は綺麗な顔が、笑うと少し歪む。それが眩しくて、湊は目を逸らしてしまった。


「どうしたの?」

「なんでもないよ、なんでも」

「変なの」


 クスリ、微笑んだ。


「あーあ、失格で一学期は順位落ちちゃったなあ」

「無理するからだろ。僕がいなかったら、もっと深刻になってたかもしれないんだぞ」


 医療魔術ですぐに骨を治してもらい、セラは歩けるようになった。夏季休暇が終わる頃には走ることもできるようになる、ということを湊は少し後に知った。


「本当にありがとう。でも、あなたまで失格になる必要はなかったんじゃない? 応急処置をして教官を呼んでくればよかったでしょう?」

「それは……そうだね」


 二人は笑い合った。なるべく声を殺して、可笑しさを共有した。





 数日後、湊も実家に顔を見せに行くこととした。手紙は何通か送ったが、それでもとても久しぶりであるように思えた。


 校門の近くにあるバス停から、暫く揺られる。窓の外を流れていく、ビルの数々。夏の日差しが硝子越しに熱を投げかけるので、彼はカーテンを降ろした。


 抽出器の小型化・省コスト化が進んだことで、バスの本数はかなり増えた。いつ古代兵器が襲い来るかわからないという状況であっても、それで国民の生活を抑圧し続けるわけにはいかない。


 従って、政府はこれまで高度な機密だった抽出器の情報を、ある程度公開した。そのことが、十二年の間に大きな技術革新を生んだのだ。


 結果、路線バスは昇陽の主要な道路の殆どをカバーするようになった。


 一時間。地下に列車を通す計画もあることはあると聞くが、できることなら早く実用化してほしい、というのが湊の本心だった。一般の通行に妨げられない、迅速な移動手段が、欲しいのだ。


 国営アパートの前でバスが停まる。3LDKの空間に足を踏み入れた湊を待っていたのは、大きな声だった。


「おかえり!」


 週末の笑が、トタトタと走り寄ってきた。


「ただいま。母さんは?」

「いるよ! お母さん!」


 キッチンから


「今手が離せないの」


 と聞こえてきた。


「部屋はそのままにしてあるわ」

「リビングで寝るってのに」


 ありがたさが身に染みて、半笑いで彼はそう返す。一先ず荷物を降ろし、母の顔を見に行った。


「怪我はしてない?」


 食器の類を洗いながらエリカが問う。湊はその背後にいる。


「僕はね。友達が足折れたことはあったけど」

「大変じゃないの」

「学校にはいい先生がいるんだよ。すぐ治してくれる」

「そう……」


 無用は不安を与えたな、と感じ取った彼は次の話題を探した。


「対番がうるさい人でさ、何を言うにも声がでかいんだ。悪い人じゃないんだけど。母さんの対番はどんな人だった?」

「穏やかな人だったわ。いつだって落ち着いていて、怒ることなんてなかった。先の戦争で亡くなってしまったけれど」


 そう、自分は死の濃い場所に向かうのだ、と湊は自分の行く先を考えずにはいられなかった。だとして、生きるのを諦めるわけではない。


「一年の一学期って、一にも二にも体力錬成でしょう? 行軍訓練、何位だったの?」

「あー……」


 真実を告げるか否か、逡巡する。だが、嘘は必ずバレるのだ。


「失格、かな」

「え?」

「足折れた人がいる、って言ったじゃん。その人助けるために魔法使っちゃって……失格になったんだ」


 母は、きっと苦しんでいる人間を見捨ててでも順位を上げろ、とは言わないだろう──彼は優しさを利用するような思考をしてしまったことを、心中で詫びた。


「正しいことをしたわね」


 そして、それが予想通りであったことをも。


「戦争は一人ではできない。誰かと背中を預け合わないといけない。そのためには、誰かを思いやる心が必要。その点、あなたは失格だけれども一番の模範生よ」


 思いの外褒められて、湊は気恥ずかしかった。


「でも、教官を呼んでくるべきだったわね」

「言われたよ、それ。冷静じゃなかった」


 だが、その付け加えた一言がエリカを喜ばせた。


「誰かのために必死になれる。それは、誇るべき美徳よ」

「……父さんは、どうだった」


 洗い物を終えた母が、振り返って息子を見る。


「父さんはね、壁を作る人だったわ。復讐にとり憑かれていた。だから、学生の頃は誰とも仲良くしていなかった。その点、あなたの方が優秀ね」

「そんな人と、どうして結婚したの」

「一緒に戦ううちに、ね。ほんとは優しさのある人なのよ。空間識失調になった私を助けてくれた」


 影のある微笑みを浮かべた母を、湊は静かに見つめていた。


「今日の晩御飯は何がいいかしら。好きなものを言いなさい」

「カレー、食べたいな」

「いいわよ。食べに行く?」

「母さんに作ってほしい」


 一週間の日々が、飛ぶように過ぎた。やがて、夏も終わる。

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