夏季休暇が終わって、また忙しい日常が戻ってくる。残暑の中、たるみ切った生活を送っていた者は、ランニングで徹底的に扱かれる。幸い湊はダレていたわけではなく、少し早めに日陰へ入ることができた。
「全く、体力の維持には日々の努力が肝要だというのに……」
水を飲む彼の隣で、優が言った。
「優だって、最後の方ギリギリだったでしょ」
「うるさいな」
軽口を叩いている内に、時間が来る。規定の周回数に達しなかった者は放課後更に走るらしい。
昼食の時間だ。いつもの麦飯に、鳥の空揚げ。サラダに味噌汁だ。昼の喫食は、訓練の一環だ。戦場でゆっくりと食事を摂る時間はないかもしれない。故に、リスクとメリットの均衡がとれているスピードで食べる練習をするのだ。
実家で自由気ままに食べていた者は、ここで自分の立場を思い出す。軍人なのだと。
早めに食べ終わった湊。食器を厨房に返し、食堂を出ようとした所で、二年生二人に声をかけられた。
「湊クン、時間、いいかな?」
金髪を刈りこんだのっぽと、茶髪を伸ばしたちび。
「……いいですよ」
空軍学校の敷地は広い。そのため、人の目の届かない場所というのはやはりある。湊が連れてこられたのも、今は使われていない旧校舎の裏だ。
「まず一発!」
のっぽの拳が、彼の頬を打つ。木造校舎の壁にぶつかって、睨み返す。
「おいおい、生意気な顔してんなあ。ええ? 英雄の息子さんよお!」
襟を掴まれ、二発、三発。それでも、湊はやり返さずに相手を睨めつけていた。その表情が、不興を買う。
「イキってんじゃねえぞクソガキ!」
のっぽは湊を投げて、ちびを呼び寄せる。二人揃って、何度も踏みつけた。
「先輩舐めてすみませんでした、って言えよ!」
「言えよ!」
繰り返される暴力。だが湊は立ち上がらない。同じレベルの人間だと認めたくない故に。
予鈴が鳴る。一丁前に成績を気にする不良二人は、舌打ちをして校舎に走っていく。
(医務室、寄ろう)
痣と擦り傷に薬を塗ってもらいながらも、湊は何も話さなかった。
「……君が喧嘩を仕掛けた側だとは思っておらん」
老医が静かに言う。
「やっかみを受けたんだろう。教官に伝えておく。誰にやられた」
「転んだんですよ」
ガーゼと絆創膏で傷を覆った彼は、医官の止める声も聴かずに教室へ向かった。すれ違う者はいない。
(遅刻の言い訳、どうしようかな)
二日後。ある噂が学生たちの間で広がっていた。それは、湊の怪我は上級生の暴力によるものだということ。それを小耳に挟んだ彼は、
(見ていたなら助けてくれよ)
と独白するしかなかった。
「大原くん、大丈夫?」
教室で教官を待っていると、阿るような声で絆創膏を持ってくる女学生もいた。
「別に。大した怪我じゃない」
ぷい、と窓に向けて顔を背ければ、それまでだ。
「随分モテモテじゃないの」
今度は誰だ、と思えばセラだった。
「誰にやられたの?」
「転んだんだ」
「何回転んだのよ。一回じゃそんな沢山傷できないわよ」
「十回くらい」
そのあまりに適当な言い訳に、彼女は笑い出した。
「あなたねえ、嘘を言うならもっと考えなさないな。誰も信じないわよ、そんなこと」
「いいだろ、別に」
セラは鞄から教科書とノートを取り出し、並べていく。
「生い立ちのこと?」
その問いに、湊は答えるべきか、数秒悩んだ。
「……ざっくり言うとね」
「そう。なら、ちゃんと反抗した方が良かったんじゃない? また来るわよ」
「死ぬわけじゃない」
「軍人になれなくなっても?」
「そこまで殴られることはないだろ」
セラは否定しない。だが、肯定もしない。
「教官に報告した方がいいわ。私から言ってもいい」
「こんだけ噂になってるんだ、いつか気付くだろ」
「だといいわね」
教官が事なかれ主義に傾くことがない、とは言い切れない。確かに、それはそうだ。だが、湊は教官に泣きつくことを“負け”であるように感じていた。
明くる日。のっぽとちびに声をかけられ、同じ場所へと連れていかれた湊を待っていたのは、やはり暴力だった。
ガーゼの上から拳を貰い、口の中が切れる。鮮血を吐き出し、彼はのっぽを見上げた。
「なあ、なんで自分が殴られているか、わかるか?」
「僕のことが気に入らないんでしょう。大原芽吹の息子で、あんたらにない才能を持って──」
言い切る前に、更に一撃。今度は腹への蹴りだった。
「あのよお、俺たちゃそんな惨めな人間じゃねえんだ。いいか? 生意気な後輩を指導するのは、先輩の役目なんだよ」
「対番でもないのに、よくそんなことが言えますね」
「ああ、戸剛毅か。あいつ馬鹿だからさ、気づく素振りすらねえよ。かわいそうだな、湊クン!」
ちびが湊の髪を掴んで、ビンタを食らわせる。二度、三度。
「──しか、自分を誇れないんですか」
彼が口を開く。
「アア?」
「後輩を殴ることでしか、自分を誇れないんですか、って言ったんですよ!」
「んだとテメェ!」
カッとなったちびが、湊に背負い投げをかける。巧みに受け身を取った彼は、すぐさま起き上がって走り出す。遅刻はしたくないのだ。速足で廊下を進んでいると、丸眼鏡の飛騨浩二に
「おい」
と呼び止められた。
「話したいことがある。こっちへ」
浩二の後ろを歩いて、教官室。性別も年齢も様々な大人たちが、湊にチラチラと視線を送っている。
「誰にやられた」
「大事にしたくないんです。殴られるだけなら耐えられます」
「いいか、軍隊は不条理に殴られる場所ではないんだ。殴るのは、基本的にナシだ。時代も変わっている」
自分より大きな教官を、湊はずっと見つめていた。
「パイロットは、国の未来を切り開く存在だ。それを徒に傷つけることなど、あってはならない。謹慎処分にしなければ、軍規の問題になる」
「いいんです。自分で何とかします」
浩二の顔は硬い。だが、そこには確かな憂慮が浮かんでいた。
「……プライドか」
「そういうものだと、思ってください」
「そうか。講義に向かえ」
敬礼の後、湊は小走りで教室を目指した。
授業に出て、時折殴られて。そんな生活が一週間続いた。傷の絶えない湊を、誰も心配して仕方がない。だが、そこに一石が投じられる。東山と西谷──のっぽとちびが除籍になったというのだ。
「やっぱり大原芽吹の息子に手を出したからかな」
「まず停学とか謹慎だろうに……退学でもなく除籍ってのは、やばいぜ」
退学と除籍。厳しさに耐えかねて退学を選んだのと、トラブルを起こして除籍処分になったのとでは、重みが違う。
「大原君って……ヤバイ?」
窓際の席で頬杖をついている彼に、好奇と恐怖の入り混じった視線が向けられる。居心地の悪いものだった。ひそひそと囁き合うのがよく聞こえる。
「随分人気者ね」
隣にセラが座る。
「セラ? チクったの」
「宍戸くんよ。あなたが上級生に連れていかれてるところを見て、教官に伝えたのよ」
「あいつ……」
顔も見ようとしない彼の肩を、セラは軽く叩く。
「よかれと思ってやったの。それくらいわかるでしょう?」
「僕は自分の力で何とか出来た」
「なら、どうして今までやらなかったの?」
「それは……」
あっという間に論破され、返す言葉もなく俯く。
「喧嘩、慣れてないんでしょ」
半笑いで言われる。
「慣れてる方がおかしいだろ」
「そうね。慣れていたなら反撃しているでしょうね」
話しながら、セラは教材を並べていく。優よりはマシだが、教科書や文房具の直角と平行に気を付けていた。
「もうすぐシミュレーション訓練、始まるらしいわ」
「対番から聞いた。全員黙らせてやる」
「野蛮ねえ」
その授業は、来るシミュレーションに備えた、戦闘機動に関するものだった。