「始め!」
静まり返った教室で、飛騨浩二の声が反響する。学年末試験だ。最初の教科は帝国語だった。五つの母音文字と発音記号の組み合わせと、皇国語で示された発音を照らし合わせる問題を、湊は手早く解いていく。
だが、筆記体の読解となると手が止まる。子供の落書きのような文章は、帝国語の教官が手ずから書いたもので、ネイティヴスピーカーさながらの流れるような文字列である。
そう、帝国語の筆記体は、極めて難読なのだ。犬が鉛筆を加えて適当に紙へ擦り付けたようなものだ。文字と文字の切れ目を見つけることが何より難しく、それができたとして文節に分ける作業が待っている。
本当に帝国人はこれを読んでいるのか、と彼は疑いたくなる。だが、そんな問いを行っている余裕はない。とにかくわかるものをわかるだけ書いて、五十分のテストを終えた。
「いやあ、苦戦した」
試験のインターバルの間は、教室から追い出される。廊下で優にそう話しかけられた湊は、その肩を叩いた。
「発音問題はどうにかなるんだが、筆記体というのはどうしてこう……」
「わかる。時間が足りないよ」
一文字間違えただの、落第必至だの、様々な声で廊下は騒がしい。人の波を掻き分け、セラが二人に近づいた。
「首席合格様は全問正解?」
「嫌味なこと言わないで。似合ってないわよ」
銀髪を掻き上げた彼女にぴしゃりと言われた湊は、そっと黙った。
「でも、そうね。九十点はとれたはず。湊は?」
「……言わないでおく」
湊とて、優等生の自覚はあった。だが、セラに勝てるかと言われると、口ごもるしかなかった。
十五分の休憩が終わる。次は機械工学だった。赫灼騎兵のチューニングを行う際に必要となる知識だ。
スラスタの類は、機体の核となる赫灼石から抽出器を通じて魔力を供給され、エネルギーを放出することで推進力を生み出している。化石燃料を用いた推進器の数倍の重量推力比が特徴だ。
その魔力を伝達する魔力伝導性金属で作られたケーブルの配置を、この問題は問うている。書いては消し、消しては書き。こうした最適化作業は、今では自動化システムで行われているが、知っているかいないかで、機体にかかる負荷などをある程度把握できるかが決まるのだ。
一年の時点で、赫灼騎兵設計のラフスケッチが書ける程度の知識を、学生たちは身に着ける。自分が使うものの構造くらいは、頭に入れておかなければならない。その理論は、学生たちにとって自然なものだった。
ふと、湊は手を止める。ここに増幅システムを組み込みたい、と思った。鞭曰く、増幅システムはいずれ量産に入るのだという。それがいつになるのかは、まだ決まっていない。早くとも卒業と同時だろう、とも。
が、そんな空想をする時間はない。彼は再び問題文とにらめっこを始めた。
抽出器と接続器の構造にも触れる。なぜ、接続器が赫灼石に魔力を送り込み、抽出器がそれを取り出せるのか。答えは簡単だ。
まず、この惑星には無尽蔵の魔力を放つ魂が存在している。赫灼石はそれが結晶化したものだ。魔導大戦の影響を受けた大地に、赫灼石が生まれたことで現代の文明は始まった。
赫灼石は、惑星の魂から放たれる魔力の波に共鳴し、魔力を蓄える。接続器はその波長を石に送り込み、魔力を吸い上げさせるのだ。
一方で、抽出器はその逆位相──全く裏返しのパターンの波長に変換した魔力を送り込むことで、赫灼石に魔力の放出を行わせる存在だ。だが、全ての魂がそうであるように、惑星の魂から出る魔力もまた、波長に揺らぎがある。
従って、実際に使われるパターンは、長い歴史の中で観測されてきたものの平均値をとったものだ。その事実が、抽出器の効率化に限界を齎しているのも、現実だ。
そういった基礎的な知識を確認する問題を、湊はあっという間に解答していく。だが、具体的な構造については触れない。それを知るのは、国営工廠で製造に携わる一部の技術者のみなのだという。
コストダウンと低出力化によって民間にも行き渡るようになった抽出器。いつか、人一人が個人で持つことも叶うのだろうか、と思ってみる。
夕方までかかった筆記試験。数学、物理、古典といった基礎的な教養を詰めこむ一年の締めくくりは、持久走だった。
「散々頭を使わせた後は、肉体を使わせるというわけだな」
白い体操服に着替えた優が、同じ格好の湊に言った。
「逆よりはマシだよ」
「うん、そうだな。で、距離は──」
一万メートル。事前に通告されているとは言え、いざ改めて発表されると、誰も嫌な顔をした。
「四十分、ってところかな」
スタートラインに立った湊は、そう宣言した。
「僕はペースを合わせられないから、気にしないでくれて良い」
「元から一緒にゴールするつもりなんてないよ」
友人の冷徹な一言に、優は笑うしかなかった。
「じゃ、また後で」
スタート。リズミカルな動きで、湊はペースを作っていく。先頭集団から抜きんでて、ザスザスとグラウンドの砂を踏みしめる。春先の夕焼けが真っ赤な光を投げかけて、限界の近い学生たちを熱していた。
トラックは一周四百メートル。二十五周というノルマをどう感じるかは、人によって違う。だが、大部分は過剰だと思っていた。知識を引き出すだけ引き出して疲弊した脳味噌が、それを肉体に押し付けるような感覚を皆味わっている。
十周を超えた頃、さしもの湊も脚が重くなってきた。だが、休む者に教官は容赦しないだろう。
(ここで一位だ。一位になるんだ!)
入学した頃は、飯を食うに困らない程度の成績で卒業しようと思っていた。だが、雄牛と手合わせしてからは、何故だか自分の中の闘争心に火が点いたようだった。
優の上を行きたい。セラに舐められたくない。何より、自分に負けたくなかった。
ペースメーカーとしての役割を、湊は着実にこなしていた。本来、ペースメーカーとは長距離走で特定の選手をサポートするための走者を指す。だが、軍学校に於いては先頭を走って全体を牽引する役目を果たしている者を指している。
安定した呼吸で、彼は最前を走る。結果として、湊のタイムは三十八分台だった。
「随分と……速いじゃないか……」
焼肉定食を前に、優がそんな彼に向かって言った。
「優が遅いんだよ」
そう言う彼もまた、涼しい顔とはいかなかった。今にも眠りそうな表情で、とにかく生きるためのカロリーを摂取していた。
「随分へばってるのね」
そこにセラが来る。まだ余裕がありそうだった。
「女子は体育館?」
「ええ。でも、今日は外の方が楽だったでしょうね。西日で熱が籠っていたのよ」
言葉の意味もはっきりしない頭で、湊と優は頷く。
「……早く戻った方がいいわよ。明日起きられくなりそうよ、あなたたち」
そこから手早く食べ終えて、風呂に入って、部屋。
「一位、誰だと思う」
消灯時間まで、寝ることは許されない。形だけでも自習をしていた湊が、同じ状況のルームメイトに問うた。
「セラくんか君だろう」
「じゃあ、二位は?」
「僕だな。筆記に関しては自信がある」
優も体力をつけた。持久走では十位に入ったという。
「僕は三位かな。第二外国語で苦戦したから」
結果発表は一週間後。一か月の春休みをどう過ごすか。答えを出せる体力はなかった。
「帰る?」
結局、そんな中身のない言葉を吐くしかなかった。
「そうだな。結果を見てから荷物を纏めるつもりだ」
湊は、家族の顔を思い浮かべた。笑も母も元気にやってるだろうか、と……。
廊下に張り出された順位は、セラ一位、優二位、そして湊は三位だった。