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第玖幕:江戸城、真夜中の策謀と死神 其ノ弐

 紙月は、ひんやりとした鉄格子牢の中で心地よい夢を見ていた。まだ、家族が生きていた頃の食卓の風景だ。


 ──主、願わくは我らを祝し、また主の御恵みによりて、我らの食せんとするこの賜物を祝したまえ。我らの主基督によりて願い奉る。


 紙月は祈りを唱えながら、実際には何も考えていなかった。早く飯が食べたいと思っていた。鰊の燻製の香りが、胃袋を刺激した。


 ──紙月よ、おまえの心には、基督様がおられぬな。


 唐突に、父が見透かしたように云う。だが、紙月にとっては、まだ父がそこにいること、それだけでありがたいことに思える。


 ──良いか、紙月、おまえが信仰心がないのも、それもまた神のお導きである。そして、そのようなおまえであっても、決して神はお見捨てにはならない。


 そう云った父の背後に、黒い仮面をつけた侍たちが現れ、首を斬り落とす。


 食卓に飛んだ父の生首が、故炉故炉ころころと回転しながら話し続ける。


 ──大丈夫だ、すべては、神のお導き。神のお導きである。


 そこで、目が覚めた。心地よく懐かしい夢のはずが、最悪の展開であった。これを見せたのが己の頭であると思うと、己自身の残酷さを呪いたくなるくらいだった。


 そして、羽を動かし、いびつなあしゆびを確かめながら、考えた。


 父もまさか嫡男である紙月が斯様かような姿になってしまうとは思いもしなかったであろう。


 これは試練だろうか? たとえば聖書の中でヨブという男が辿った運命みたいな?


「いやあ、だとしても俺は誰に祈ればいいんだ?」


 とりあえず、腹が減ってきた。


 そもそも此処は何処なんだ?


 江戸城の中なのは間違いないが、〈鳥奥〉でもないらしい。それに、すぐ近くから奇妙な「臥唖があ唖唖唖唖唖唖唖唖!」と云う啼き声が聞こえてくる。


 あんな啼き声の生き物には、これまで会ったことがない。


 この低く、くぐもった重低音から察するに、その身体はよほど巨大なのではないかと思われたが──。


「弥助と言ったっけ? 腹が減ったんだけど、蝸牛かたつむりとかないかな?」


 牢の外にいる顔に傷をもった鳥見役頭は、そのへんの葉っぱを見て、一つ、二つの蝸牛を放って寄越した。


「これでよいか?」


「ありがたい」


 自分でも呆れるほど高速でそれを罵理罵理と平らげてしまった。


 外の殻の可理かり可理も、中の途露とろ途露とした柔らかさも、今ではすっかり病みつきになっている。ある日突然人間に戻されても、そのへんに蝸牛を見つけて食べてしまうかもしれない。


「それで、さっきから奇妙な声が聞こえるが、あれは何だ?」


「あれか。あれは──おまえを死に追いやる化け物、死神みたいなものだ」


 そう云って、弥助はふふふっと笑った。


「だが、此処だけの話を云えば、拙者としてはおまえがあの死神を倒すことを望んでもいる」


「ほう? なんでだよ?」


 これだ、と云って、弥助は顔の傷を示した。


「この傷を拙者につけたのが、あの化け物よ。あんな恐ろしい生き物はこれまで見たことも聞いたこともない。だからまあおまえも、十中八九はお陀仏だろうが──健闘を祈る」


「あんたなんかに祈られたら、余計に負けそうだぜ」


 そう云うと、弥助はくっくっくとまた笑った。


「媚びない奴だな。どうやら拙者はおまえのことを少しばかり気に入ってしまったようだ」


「そうかい、そいつは俺と気が合わないね」


「とにかく、すべてはあと数時間後に行われる〈闘鳥の宴〉ではっきりする」


「〈闘鳥の宴〉? 何だそれは?」


 惚けた調子で紙月は尋ねてみた。本当はテルに聞いてすでに知っていたのだが。


「城内の鳥の中で誰が最強かを決めるのさ」


「それ、何が面白いんだ?」


「鳥同士の殺し合い。人間同士の戦が終わって、天下泰平、平安な世の中が訪れてみると、何とも物足りなくなるのが人間というもの。そこで、人ではなく鳥を闘わせてその命を削らせる。大いに血沸き肉躍る宴となるだろう」


「さっぱり分からん。戦乱の世が厭だったんじゃないのか?」


「おまえには一生分かるまいよ」


「分からねえよ。まあでもとにかく、その宴で俺はその、姿は見えないが、変な啼き声の怪物に殺されるってわけかい?」


「ああ。物分かりがいいじゃないか」


「物分かりは悪いことで定評があるんだけどね」


 そう云いながら、老いぼれ尾長鶏のテルの言葉を思い出していた。


 ──金卵を盗み出せる好機を教えて進ぜよう。それは、明日訪れるでありましょうな。


 だが、あの話は要約すれば、鳥見役が宴に駆り出されるから、〈鳥奥〉が手薄になるという話だった。紙月自身がその宴に参加させられるのでは、かえって金卵を盗み出すのが困難になってしまうではないか。


 いや、待てよ? ものは考えようか。


「その宴、家光公は来るのか?」


「無論だ。宴は、徳川家光公本人たっての望みで行われるのだからな」


 ふふっと紙月は思わず笑みが漏れた。天草に頼まれたもう一つの密命を片付けるにはちょうどいいわけだ。家光がいるなら、其処に当然、家康もいるはずだから。


「そいつはよかった。それなら、死神に殺され甲斐もあるかもな」


 そう考えながら、同時に紙月は天草の安否について考えないわけにはいかなかった。


 彼奴は無事なのだろうか? 


 そして、天草のことをかくも気にかけている自分を訝った。


 ほんの僅かな時間を共にしただけの者をこれほど心配できるものだろうか?


 と、なぜかその時、紙月は天草の姿を思い出そうとして、不意に夢の延長なのか妹の紙乃の姿を思い描いてしまった。


 そして遅まきながら、紙乃と天草には何処か似通った空気があることに気づいた。そうか、それで俺は彼奴に親近感を抱いているのか。


 紙月は、天草の無事を祈った。


 尤も、無信仰な紙月に、祈る神はいなかったのだが──。



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