この縄自体を、
天草は己の両手を背後できつく結わえている縄の結び目に手を触れ、心の中で念じた。
──我は命の麺麭
すると、
同時に、周囲には、無数の麺麭の雨が降り注いだ。
「な……! 何事だ!」
恐れをなした家康。
だが、この余興のために人払いをしていて、今は周囲には目隠しをされた尾長鶏を除けば誰もいなかった。
天草は自由になった手足を引き摺りながら立ち上がり、逃げ口を探した。
「出会え出会え!! 曲者じゃ!!!」
家光の号令を聞きつけ、天井からさささっと何かが舞い降りたかと思うと、一瞬にして天草を取り囲んだ。
忍びの者たちだった。
一人目が飛び掛かってくる。
天草はその手をよけずにつかむと、そのまま麺麭に変えた。恐れ慄いたのはほかの忍者たちだった。刀をもった一人が、直接その刀で殺害を目論んだ。
だが──天草はその刀が己の心臓を貫かんとするまさにその刹那に、同様の術を用いてその刀を麺麭に変えた。
持っていた刀が麺麭になったことに、困惑と恐れが同時に訪れたらしい男は、震えながら後ずさった。
「道を開けてくれぬか。余はこれ以上貴公らを麺麭に変えたくはない」
「お、おのれ……化け物め……!!」
だが──。
爆音とともに天草の体に異変が起こった。
何かが天草の体を貫いた──。
「こんなものは使いたくなかったのだが──仕方がないよな?」
家光がそう云いながら、背後から近づいてきた。
その手には、短銃が握られていた。
「異国の武器はあまり好みではないとは云え、文明の利器を拒絶するのは、あまり利口ではない。これは最新の短銃でな、じつに軽いのが俺の好みに合っている。そして威力はこれまでの火縄銃の何倍も強力。恐らく、いまの一撃で、おまえの内臓は破裂しただろうなぁ」
その通り、天草の腹部はすでに真っ赤に染まっており、口からもごぼごぼと血が噴き出ていた。
「おお、あまり畳を汚すな。畳職人を叩き起こさねばならないではないか。おっと、今のはちょっと頭韻を踏んだ感じだな。いかんな、こんなところで俺の知性が」
家光はそんなことを云いながらなおも近づいた。
天草は息も絶え絶えに、畳を這いつくばって進んだ。
「ほれほれ、誰が血を垂らせと云うたのだ? 糞尿を垂らせと云ったのだぞ? やはり首でも締めねば無理か。知っておったか? 首を絞められるとな、人間はその瞬間に糞尿を垂れるのだ。あんまり手荒な真似はしたくなかったのだが──妙な妖術を使う相手では、其れも致し方ないなぁ」
「ぐ……は……はぁ……死ね……」
「ん? よく聞こえなかったな。何か云ったのかな? 甘白ちゃん」
家光は、そう云いながら再度天草を射撃した。
体にさらに強い衝撃が走り、そのたびに天草の体は畳の上を跳ねた。
「良いか。俺を恨むなよ? 俺はなあ、ただおまえと仲良くしたかっただけなのだ。お前が俺に大事なものをすべて明け渡していれば、かくも無残な姿にならずとも済んだものを」
意識が、朦朧としてきた。
天草は己の死期を悟りつつあった。
そして──仲間たちのことを考えた。
🐔
天草の家の四人目に生まれた子は、女子であった。名は時貞。呼び名は四郎。父も兄たちも、その子を守るために男の名でその子を呼び、男の子として育てた。
──この国で女子を守るには、こうするしかないのだ。
いちばん年の離れた兄の一郎はそう云っていた。
やがて成長し、体が膨らみを帯びてくると、サラシを巻いて全体を引き締め、体の曲線から女性と判ぜられぬように気をつけた。
やがて、聖書に出会う。不思議と、天草は聖書を一発でほぼすべて暗記してしまった。そればかりか、読み進めるうえで基督に共感するあまり、己も妖術めいたものが使えるようになったのである。
──この子は神の子だ!
村人たちは口々にそう云い、気づけば天草四郎時貞は、集団の長となっていた。
食糧難に陥った村人たちにとって、万物を麺麭に変える時貞の能力は何にも代えがたい恵みであったのだ。
やがて飢饉が起こった。
そのさなかにも、なぜか年貢の高騰は収まらない。島原の領主、松倉重政の圧政に対する不満は最高潮に達しようとしていた。当然の声だった。
時を同じくして、切支丹の弾圧が始まると、それ以前から燻っていた貧困への不満が限界を超え、一揆の動きが広がっていった。
──四郎、おまえがみんなの棟梁となってくれぬか?
一郎から打診を受けたときは、なぜ自分なのかと戸惑うばかりだった。
だが、同時にほかに相応しい人材がいるとも思われなかった。時貞は己の言葉が人を動かす力を持っていることを知っていたから──。
それに──大好きな一郎からの頼みを断れるわけがなかった。
兄とは血がつながっていなかった。
一郎は──前妻の連れ子だったのだ。
時貞のことを〈甘白〉と名付け、誰もいない場では、一人彼女を女として丁重に扱ってもくれた。そんな一郎に、人知れず恋心を抱くようになっていた。
だが──一郎は幕府軍の銃弾に倒れた。
顔の一部を失うほどの爆撃を受け、物言わぬ姿となった。
それまで、皆に頼まれて仕方なく頭として動いていた時貞に、殺意が生まれたのはその時であった。
然し、不思議である。
天草がいま、その声を思い出そうとすると、なぜかあの火喰鳥の声と重なってしまうのだ。
慥かに、少しばかり能天気なところは、似ているのかもしれないが──。
その容姿は、もはやあの強烈な火喰鳥に上書きされてしまって思い出せなかった。
「さあ、お得意の基督さまには祈ったか?」
家光の声は、最早ほとんど夢の中の其れのようにしか天草には聞こえなかった。
天草は、天命に委ねるように、静かに目を閉じた。