もしも秀吉が天下奪還を目論む理由の一つが寧々にあるのだとしたら、それは大いなる勘違いと云わざるを得なかった。だが、その勘違いを助長させたのも、じつは官兵衛であった。
──寧々が死ぬ前にな、もう一度、天下人の妻と云う立場を味わせてやりたいのじゃ。
最初にそう聞いた時、これで寧々がすでに他界していると知れば、一気にただの高麗雉に成り下がりはしないか、と心配になった。
それゆえ、寧々は生きている、という前提でこれまで秀吉と対話を続けてきた。
だから当然、これからもこの想定は続けていこうと思っていた。
だが、いつまで続けられる?
いずれ、何処かでは真実を告げねばならぬのだ。
そうなれば、たとえ天下を獲ったところで秀吉は途方に暮れるかもしれぬ。
その姿は、しょうじき見たくなかった。
忘れよう。
すぐに官兵衛は頭からその悩みを追い払った。それどころではなかった。
家康を暗殺した後の城内の動きこそが重要であったのだ。
そうして動向を見守った。そのうち家康公の影武者を立てることで話が進んでいることがわかった。それで、その影武者の〈声〉となるべく、尾長鶏の尾の陰に身を潜めたというわけである。
無論、鸚鵡は目立つゆえ、身を潜めたと簡単に云ってもそううまくいくものかと首を傾げる向きもあろう。
だが、擬声の術を使えば問題はない。この方法は江戸城内の忍びの活動を学ぶうちに使えるようになった。
忍術を会得した官兵衛にとって、声真似は単なる声真似にあらず。官兵衛は声を真似る時、同時にその人物の思想や技能を習得しているのだ。
──鸚鵡七変化!
そう唱えると、即座に官兵衛は声の主の思想や技能をそのまま受け継ぐことになる。
従って、官兵衛はこの三日間、あの狂気じみた将軍のおひざ元と〈御長の間〉を往復する日々を送ってきた。
🐔
〈御長の間〉には、〈金卵〉を運ぶために幾度か潜入する必要があった。それは容易なことだった。何しろ、目隠しをされた影武者の尾長鶏が家光のもとから戻る場所が〈御長の間〉であるので、尻尾に隠れたままついて行けばよかったからだ。
あとは卵をいくつかつまんで籠に入れて、鳥見役たちの出入口の付近の叢に隠しておき、彼らの出入りの機を狙ってそれを〈鳥奥〉の外へ運び出てしまえばいい。一度外へ出られれば、その重みに耐えながら飛び立つだけのこと。
その作業を、この三日で四度繰り返している。
毎度、向かうのは羽柴利次のお屋敷。
はじめは人語まで操る鸚鵡を不気味がっていた利次だったが、秀吉健在の旨を伝えると様子が変わった。警戒心が高く俄かには信じていなかった利次も、官兵衛の巧みな話術によって徐々にその存在を確信したようだった。
──然し、その金卵は将軍様の大切な品であろう?
──そうだよ。大切にしてるから奪うのさ。でないと江戸の世は終わらないぜ? もう一度豊臣の世にしたくないのかよ?
──ふむ……。分かった、此処で預かろう。預かるだけでよいのだな?
──ありがたい! 秀吉様もお喜びになるぜ、きっとな!
そうして、あとは〈御長の間〉からせっせと金卵を盗みだしては利次のもとへ運び、といったことを繰り返せばよかった。
「兎に角、これで、およその支度は整ったんじゃないかなー」
官兵衛が云うのへ、秀吉は「ふむ」と応えた。
「まあ儂にはよく分からんが、策士のおまえがそう云うなら、そうなのだろうな」
「秀吉様、僕への信頼厚すぎじゃない? でも僕は嬉しいよ。秀吉様にもう一度天下統一の花道を作ることができて」
秀吉は満足げに頷き、空を見上げた。
「天下統一か……良き響きよのう……もう一度云ってくれぬか?」
「え? 天下、統一?」
「いいなぁ……もう一度」
「いや、もういいでしょ。それより、一つ厄介な奴を処理しておいたほうがいいかと」
「厄介な奴?」
「鈍いなぁ、秀吉様、あれですよ、あの化け物鳥」
「ああ、火喰鳥か」
そう云いながら、秀吉が躊躇している気配を感じた。
どうやらあの巨大な鳥に勝負を挑むのを恐れているらしい。
それはそうだろう。
官兵衛だって、あんな化け物に真っ向勝負を仕掛けて勝てるとは思えぬ。
「だが、もう心配はなかろう? あそこで武田信玄が誤った情報に従ってくれたおかげで、火喰鳥は捕獲されたわけだからな。邪魔者は消えたも同然だ」
じつは武田信玄に〈御長の間〉に近づく道程を教えたのは官兵衛であった。〈御長の間〉の周辺には罠がある。罠にかからずに進むには特別な道を行かねばならぬ、と云って罠の張ってある道のほうを教えたのだ。
お蔭で信玄は死に、火喰鳥は捕まった。然し──。
「そう云い切れるかなぁ……」
あの火喰鳥は阿蘭陀人の土産だったが、官兵衛の見るかぎり、どうも特別な意思をもっているように思われた。
それに、なぜ〈御長の間〉に興味をもったのか?
考えられるのは、〈金卵〉を狙っていたという可能性だろう。
もしもあのまま火喰鳥が〈御長の間〉に〈金卵〉を奪いに来ていたのだと告白すれば、役人たちは念のためにと〈金卵〉の無事を確かめる流れになる。
そうなれば──いよいよ官兵衛の身は危うくなる。
此処から秀吉と自分が飛び去るまでは、絶対にバレてはならぬのだ。
🐔
「おまえは小心者だな」
「用心深いって云ってほしいよ」
「おまえが家康のふりをして家光に入れ知恵した〈闘鳥の宴〉で、もう一羽の化け物鳥とやらと戦えば、火喰鳥は瀕死の重傷を負うであろう。そもそも、勝敗がつけば、あとは要らぬ命だ。おまえの見立てでは、もう一羽の化け物鳥のほうが強いのだろう?」
「んん、まあ、ね」
先刻、城内で大暴れしたあの鳥の相貌を思い出す。
あれの殺意の塊のような目つき──。
あんな目をする者を、じつは官兵衛はこれまでに一人だけ知っていた。
鳥に転生する前に、一度だけ見たことのある目だ。
あれは──。
「それでも、万一の場合には、あれは僕らの邪魔になるよ。何か、嫌な予感がするんだ、あの火喰鳥の雰囲気……すごく苦手」
これは理不尽な感覚だった。とても合理的には割り切ることのできぬ。
これほど周到に準備してきた天下奪還計画が、あんな頭の悪そうな化け物鳥に台無しにされるわけがあろうか? だが、妙に不安が脳裏を行き来する。
「案ずるな。それより、ほれ、蚯蚓でも食べて元気を出すのだ。あと暫くすると、この〈鳥奥〉から多くの鳥が〈闘鳥の宴〉に駆り出される。我々もな。あの化け物鳥が殺される場面を、とくと見物しようじゃないか」
「そ、そうだね、うん」
答えながら、不思議な感慨に耽っていた。人間であった頃、秀吉との間にこれほど生暖かい情愛の感が湧いたことはなかった。家臣と殿ではなく、今は本当の相棒になれているような、そんな気がしたのだ。
その時、雉舎の扉が開いた。
鳥見役の弥助が、鳥を移動させに現れたのだ。
耳のいい官兵衛は、すでに城内の家臣たちの殆どが宴の場へと移動を開始しているのを知っていた。あの宴には、城内の人間だけでなく、外からも珍しい鳥を保持した豪商や侍が招かれている。
それゆえ、警護が宴の場に集中し、それ以外の場所がもっとも手薄になるのだ。
「でもあんまり試合観戦に熱中しちゃダメだよ、秀吉さま。宴の隙を狙って、僕らは江戸城から脱出しないといけないんだからね」