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第拾伍幕:真実の尾長鶏 其ノ参

 🐔


 幼い頃、家光にとって家康は伝説の存在だった。


 と云うのも、家康は家光が生まれて数年の後に亡くなっていたからだ。


 ──徳川幕府は、其方のお祖父様が作られたのだぞ。祖父様はお主が生まれた時、たいそうお喜びになり、何度も抱いてくださった。


 父親からそう聞かされてはいたが、そんな記憶は自分にはなかった。


 然し、徳川家の礎を築いた英雄として、家康の話を家臣たちから聞かされ、その強さや知恵に憧れを抱くようになった。


 と同時に──あるいはそれゆえに、身近に感じることはあまりなかった。


 家康の遺した教えや威光は、やがて重責となり、鬱陶しい伝説になっていった。


 誰もが、家康と自分を比べたがったからだ。


 ──秀忠様は家康公に比すれば凡人の類であったが、家光様はどうだろうな。


 そんな陰口を聞かれたこと、一度や二度ではない。


 そのうち、家光は破天荒な行動を繰り返すようになった。


 家臣を痛めつけ、女遊びや衆道遊びに明け暮れた。


 それが──あの日に変わった。


 一羽の尾長鶏が唐突に現れて、話しかけたのだ。


 ──其方の苦しみは、儂にはよく分かるぞ。良いのだ。お主は間違っておらぬ。解き放て。己の全てを解き放つのだ。大丈夫、其方には儂がついておる。


 ──誰だ、手前は……? 妖怪か? しゃべる尾長鶏なんて聞いたことがねぇ。


 ──天下人が汚い言葉を使うな。品位を損なえば、天下も地に落ちるぞ。我こそは、徳川家康──おまえの祖父だ。


 大笑いした。だが、其処へ家臣たちがやってきて尾長鶏を追い払おうとした時、その言葉が理解できているのが、自分だけだと気づいて家臣たちの手を制した。


──じいやに何をする。この尾長鶏は、徳川家康であらせられるぞ!


 その日から、家光はつねに家康の言葉を傾聴するようになった。ときには反抗的に、ときには従順に。家康は家光の狂気さえも受け止めてくれた。そのことで、家光は最大の理解者を得た。理解は、愛情にも勝る。


 これまで、自分に愛情を注いでくれる者は多数いた。だが、この孤独な魂を理解しようという者はただの一人もいなかったのである。


 家光はもう孤独ではなかった。それに、家康は天性の策士でもあった。


 今回の一件にしても──すべては家康が仕組んだ罠だった。


「然し、此れと云うのも、秀吉が〈鳥奥〉に潜んでいることを、一羽の孔雀が伝えてくれたお蔭だ。まさか、あの明智光秀が孔雀に転生していようとはな」


 家康はそう云って楽し気に笑った。


「まったく、じいやの昔馴染みの武将たちもいちいち鳥が好きだなぁ。俺はごめん被るけどね、鳥に転生だなんて」


「やかましい。誰のお蔭で天下人に収まっていると思っているのだ?」


 家光はそう云われてむくれたように下唇をつきだした。全く、じいやは何故こうも口うるさいのだろうか。


「光秀が事前に〈金卵〉を蔵に隠しておくように儂に入れ知恵をしたお蔭で、秀吉たちは羽柴邸へ間抜けにも金色に塗ったただの石を運び続けた。莫迦と鋏は使いようとはよく云ったものよ」


 すると、その話を聞いていた印度孔雀が前にすすっと歩み出た。


 家康はその姿をみて静かに云った。


「でかしたぞ、光秀殿──其方も前世では苦労された。これからはゆっくりと余生を送られるがよい」


 孔雀は、誇らしげに羽を広げて見せた。百目にもみえる幻惑的な文様に歓声が上がると、光秀は余計に誇らしげな顔つきになった。


「お役に立てて何よりでございます。我がここに留まったのは、我が天下を三日で終わらせた秀吉を殺すためでございますゆえ」


「そうであったな。懐かしい話だ」


 家康の懐かしむ顔つきを見ながら、家光は家康が遠い昔の戦乱の世について語ってくれたことがあったのを思い出していた。


 敵は本能寺にあり──そう云って明智光秀が本能寺に火を放った後、信長の弔い合戦の音頭をとったのは、間違いなく秀吉であった。


だが──家康は全くそこに手を貸さなかったわけでもない。後方ながら、秀吉に与していた。


 ──良いか家光。優れた武将は、出来る限り死ぬ瞬間まで、敵に己の敵意を悟らせぬものだ。寝首をかかれたことに気づくのは、冥途に辿り着いてからで十分であるよ。


 祖父は、いつもそう語ってくれたものだ。


 そう、光秀を追い詰めた手の中には、ひそかに家康のそれも混ざっていたのである。


 ただ、それは恐らく明智光秀には永遠にわからなかったであろう。


「ふっはっはっは」


「……どうされたのです、家康殿」


「いやあ、愉快愉快」


「何が……?」


「先ほど、ゆっくりと余生を、と儂は申し上げたな。どうかな? 余生は楽しめたかな?」


「余生? 何のことでございますか?」


「其方の余生が、そろそろ尽きるのだが」


それから──家康は長い尾を自在に動かした。


尾羽幻鞭術おばねげんべんじゅつ!」


 その途端、尾は鋭い鞭となり、ひと断ちで光秀の首を巻き取るようにして刎ねたのだった。家光は、その様子に興奮している自分を押さえられなかった。幼い頃、威厳に満ちた祖父の武勇伝を何度も聞かされてきた。


 だが、最近では尾長鶏の姿ゆえに然様な威厳を垣間見る機会はなかった。


 其処へ、今の幻術を見て、かつての己の英雄が戻ってきたような気持ちになったのだ。


 また場内に叫び声が上がる。鮮血がそこら中に飛び、家臣たちの中には顔に血が飛んで慌てふためいている者の姿もある。


「では、これにて余生は終わりだ」と家康は静かに云った。


 それを見て、家光が拍手を始めた。


「いやー、じいやお見事! まだまだ現役だなぁ、やるなぁ!」


 本心からの喝采であったが、家康の表情は微塵も変わらなかった。


「おだてても何も出んわい」


それから、孔雀の頭部を見下ろして家康は吐き捨てるように云った。


「光秀殿、儂はいつの世も汝に同情しておる。汝ほど、つねに貧乏くじを引く男はおらぬよのう。嗚呼、かわいそうかわいそう」


光秀の首は、無言のまま家康を見つめていた。その虚脱感溢れる顔つきからは、前世でも現世でも最後まで家康に出し抜かれた男の哀愁が感じられた。


 家康は、その光景を見て思わずと云った風に呟いた。


「風流よのう……侘び寂びの精神がある」


 家光は、その現実離れした感想がおかしくて大笑いをした。


 その笑い声だけが、庭園にいつまでも響いていた。


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