午後の陽が、西の空へと傾き始めた頃。
アースレイン家・王都屋敷の応接室には、静かな香の香りが漂っていた。
上質な絨毯と磨かれた銀の食器、そのすべてが客人を迎える準備を整えていた。
「ご案内いたします。カテリナ公爵家のご令嬢、フレミア様です」
執事グレンの落ち着いた声とともに、重厚な扉が静かに開かれる。
そこに現れたのは、長い栗色の髪を波打たせ、青紫のドレスを纏った少女。上品な佇まいと、どこか大人びた涼やかな瞳。
フレミア・カテリナ。
三年前に婚約者になった彼女は成長を遂げて、誰もが振り返るような美しい女性になりつつある。
「ご無沙汰しております、ヴィクター様」
「ようこそ、フレミア。王都の空気は肌に合いそうか?」
「はい。……けれど、少しだけ、落ち着かなくて、ヴィクター様に会いにきてしまいました。ご到着の報告を受けましたので」
彼女は微笑みながら席につく。指先がほんの少しだけ緊張を伝えていた。
「我がアースレイン領の空気が強い、北側の区画は慣れませんか?」
「ええ。父──カテリナ公爵は商工と交易を管轄していますから、私たちの屋敷も東区にあります。ですので、学園以外でヴィクター様とお会いできる機会は……」
「少ない、ということだな」
彼女はそっと頷いた。
「ですが、私は学園でご一緒できること、とても楽しみにしております」
その声は明るく装われていたが、ほんの少しだけ、寂しさの色があった。
過去の僕は、この気持ちに気づけなかった。
だが、今は気づいたとしてもどうすることもない。
僕は彼女の言葉の裏にあるものを読み取れるようになっていた。
三年という期間と、アリシアの一件があったからこそ。
僕はただ自分が他人に対して、無関心でいるだけで真実など見つけられないということに気づくことができた。
だからこそ、エリナのことやリュリアの態度にも目を向けるようにして、フレミアの態度の変化にも目を向けるということも意識的に出来るようになった。
表面的には貴族として恥じない態度と、余裕のある行動を演じる。
そういう訓練を自分に課した。
「……安心しろ。学園では誰にも邪魔をさせない。俺たちは、学びの名を借りて、より深く知り合う場に立つのだから」
その言葉に、フレミアは目を細め、静かに笑った。
「ええ。そうなることを、私も願っております。ですが、ヴィクター様は、雰囲気が少し代わられましたね。闇を抱えながらも、闇を上手く隠されているように感じます」
「不満か?」
「いえ、むしろ、私だけがヴィクター様の闇を知ることになるので、嬉しい程度です」
用意された茶に口をつけながら、彼女はふと、視線を庭に向けた。
「ヴィクター様……」
「なんだ?」
「こうしてお話ししていると、不思議と……心が落ち着きます。あなたがここにいる、それだけで、少し強くなれるような気がして」
僕は冗談めかして言ったが、フレミアは軽く首を振った。
「私はあなたの隣に立ちたいと願っています。学園でも、ここでも、どこにいても」
「なら、僕の隣を保てるように努めろ。ここから先は、誰もが敵になるかもしれない」
フレミアは微かに驚いたように目を見開き、そして頷いた。
「ええ、覚悟しております。あなたと共に歩むと決めたその日から」
これでいい。
未来を変えるために、信頼も、愛も、全て疑ってかかる覚悟を持つ。
だが、この手を取った者だけは、守る。
それが、今の僕が掲げるたった一つの誓いだった。
フレミアのことを僕は信用しない。
♢
夜が老けて、フレミアを帰した僕は一人で屋敷の風呂に入っていた。
「アハっ! ご主人様、いよいよね」
「勝手に入ってくるな」
「もう、こんなにもナイスバディーの私を見て興味なさそうな顔をするのは、ご主人様だけよ」
魔族として、成長を遂げているリュシアは、白銀の髪を腰まで伸ばして、普段は隠している二本の角。そして、凹凸がしっかりと取れた体を惜しげもなく僕に披露する。
「実際に、興味ない」
「もう、私はこんなにもご主人様に恋焦がれているのに! ふふふ、三年経っても、一向に静まることのない絶望。人が死ぬという苦しみを味わうとそこまで重い感情を抱ける者なのね」
リュシアは僕が未来から記憶を持って戻ってきたことを知っている。
その上で、学園にいる三人の仲間たちのことを話したいのだろう。
「エリス。あの子が、ご主人様を裏切った一人なのよね?」
「ああ、だが、彼女に関してはわからないことが多い。僕が拷問を受けている間も一度も顔を見せることなく、断罪される処刑の日になって歓楽席でずっと泣いていた」
エリスとは戦場で常に背中を預け合う中だった。
そんな彼女は、僕が王家を打倒して、アリシアと結婚を発表した日から姿を見なくなっていた。
そして、僕はアリシアに毒を盛られた。
エリス。彼女は何を考え、何を思っていたのか……。
戦場以外で、もっと彼女と話していれば、彼女のことを知れていたのだろうか?
「アハっ! 今のところは魔族の気配はないわ。まぁ、今の彼女は信じてあげてもいいのかもね」
「僕は誰も信じない」
誰も信じない。だが、外面がいくらでも取り繕うことができる。
これからの学園では、過去と同じような態度で、奴らと接することで、様々な情報を集める。それが僕が決めたことだ。