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第55話

《side:ヴィクター》


 戦闘後の夜は静かに感じる。


 忙しなく動き続け、魔物の方向と、耳の横を通り過ぎる魔法の爆発音。


 それらが嘘のようになくなって、何もない世の中が広がっているように感じるからだ。


 学園の演習区域から戻った後、生徒たちはそれぞれ宿舎での休息に入っていた。


 僕はアースレイン家の屋敷に戻って、庭で木刀を抜いていた。


 今日の戦いは、これまでの中で一番長い時間戦っていた。


 かつての戦場を思い出すほどに高揚している自分がいた。


 今回の魔物の暴走は、どう見ても偶然ではなかった。


 リュシアの存在を知らずに、魔族という存在を知らなかったならば、犯人の検討もできなかっただろう。


 結界を破った魔物。

 生徒の命を奪うほどの暴力性。

 そして、あまりにも異常な出現位置と個体数。


 一体一体が、現状のレオ(第三階位)を倒せるほどの実力を秘めていた。


 僕が第四階位まで強さを高めていなければヤバかったかもしれない。


 《冥哭》を手にしていなければどうなっていたか? 前回の学園で同じことがあっただろうか? 記憶にない。


「これは……何者かが意図的に仕掛けてきた。それも前には経験していないことだ」


 炎の明かりに照らされた部屋で、僕は小さく呟いた。


 その時、庭に人影が現れた。


「呼ばれた気がしたから、勝手に来ちゃった」


 声の主は、白銀の髪と紅の瞳を持つ魔族の少女、リュシア。


 月明かりが、彼女を照らすように輝いて見えてしまう。夜は魔族を輝かせているように思うのは、僕の勝手な思い込みだ。


 纏うローブは深紅に染まり、夜風にふわりと揺れる。襟元からは白い肌が覗き、冷たい灯りの下で、幻のような輪郭を描いていた。


「……呼んでいない」

「アハっ! ご主人様の感情は私を幸せにしてくれる。だけど、今回は疑念があまりに濃かったもの。誰が見ても何かがいたって気づくでしょ? それとも……私以外にも調べさせるつもり?」


 魔族の気配に対抗できる者はリュシアしかいない。敵が魔族である可能性がある以上。


「リュシアに、調査を依頼する。今回の魔物の出現位置、死体の回収状況、誰が最初に異変に気づいたのか。そして……」

「誰が魔物を暴走させたのか? よね?」


 リュシアはくすりと笑った。


「ああ」

「わかってるわ、ご主人様。命令なら、従う。でも、今回は……ちょっとたくさん働いているから報酬が欲しいわ」


 彼女の声は、夜風に混じる煙のように滑らかで、ゆっくりと僕に近づいてくる。


「報酬?」

「ええ」


 ローブを外して、三年前よりも成長した体を強調するように胸を突き出した。


 ドイルなら、それだけで緊張して顔を赤くするのだろうな。


 リュシアの紅い瞳が、真っ直ぐ僕を見上げるように、体をピッタリと当てていた。


 手は後に組まれたまま、唇は挑発的に吊り上げられている。


「……何を望む」

「アハっ! わかっているはずよ。魔族が求めるのは甘美なる感情。ご主人様は常に絶望と闇を抱えている。それはとても美味しくていいのだけど、たまには違う物も食べたいの」


 まるで、舞を踊るように軽やかに、足音を立てずに引き下がっていく。


「甘美なる感情?」

「ええ、情欲、欲情、性欲、アハっ! ご主人様の欲望を頂戴」

「欲望を?」


 離れたリュシアは、もう一度僕の前に立って、今度は自分が着ていた服を手にかける。


 そのまま、そっと僕に見せつけるように月明かりに照らされてスカートを持ち上げていく。


 白い足が顕になって、下着が見えるところで止める。


「……一人の女として、私を見て」

「それが報酬か」

「ええ」


 彼女はそっとスカートを下ろして、僕へ近づく。頬に触れる吐息が、やけに熱い。けれどその温度とは裏腹に、僕の心は冷えていた。


「……そんなことに何の意味がある?」

「私が幸せなだけよ」


 そう言って、彼女は僕の肩に手を乗せた。


「私、今日のご主人様の戦いを見て、ゾクゾクしたの。誰も届かない領域を、あなたはたった一人で切り拓こうとしてる。その孤独が、あまりにも美しかったから。私は、その一番近くにいたい。共犯者として」


 リュシアの言葉に、媚びはない。あるのは、飢えと、崇拝と、わずかな渇望。


 僕は静かに答えた。


「お前がそれを望むなら与えてもいい」

「アハっ! 今夜のご主人様は、少しだけ優しいのね。体が高揚しているのが伝わってくるわ。今日の戦いがご主人様を昂らせているのね」


 リュシアはくすりと笑って身を離した。気づけば、その唇に指を当てている。


 契約の代わりに、秘密を共有する恋人のような仕草だ。


「調査、引き受けるわ。報酬は……考えておいて。私はいつでもご主人様を欲しいと思っているわ」


 そして、ローブを翻してその場を後にする。


 振り返りながら彼女が最後に見せた微笑は、夜に咲いた紅い毒花だった。


 リュシア。彼女の本質がどこにあるのか、僕は三年経っても掴めていない。


 けれど。彼女の言葉の中に、たしかに熱があった。


 その夜、僕は戦闘を思い出して、体を動かしてから眠りについた。


 どこまでも剣があるだけだ、僕の心は静かに闇に堕ちていく。



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