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第56話

《side:エリス》


 暗闇が、また来た。


 深い深い闇の中で、私は一人、ただ立っている。


 足元には、灰になった村の跡。


 焼け焦げた家々。赤黒く染まった地面。


 風が吹くたびに、聞こえるのは悲鳴。遠くで崩れる木の軋む音。何かが引きずられていく湿った音。


「……また、あの子だ」


 丘の上に、影が立っていた。


 白くて長い手足、そして、ぼんやりと灯る赤い瞳。


 人の形をしているのに、絶対に人間じゃないと分かる。


 あれは、あの夜、村を焼いた何かだ。


 私の魔力に反応して現れた、名も知らぬ存在。


 夢の中で、何度も何度も出会っては、追いかけられる。


 逃げても逃げても、最後には飲まれて、泣きながら目を覚ます。


「もう……嫌なの」


 震える指先を握りしめる。ふと、指先が熱を帯びた。


 掌に、小さな光がともる。焔の魔法。


 私は、この三年間、ずっと鍛えてきた。魔法使いとしての基礎。詠唱。展開。発動。


 誰にも負けたくない。あの方のように、ヴィクター様みたいに、誰かを守れる存在になりたい。


「……私は……強くなるって、決めたの!」


 光る魔法陣が、足元に浮かび上がる。


 影が、ざわり……と音を立てて動いた。


 私は、足を踏み出す。


 怖い。怖い。でも。


 逃げるだけの夢には、もう飽きた。


「私は負けない! 立ち向かうって決めたの」


 こういうことなんだって、ようやく分かった。


 ヴィクター様を見習いたい。


 怖いものがなくなるわけじゃない。


 それでも、逃げずに戦おうって思えたことが、今の私には、誇らしかった。


「来なさい、影のあなた。私は、ここにいるわ!」


 魔法が発動する寸前、夢が。


 ぱんっと破裂するように、崩れた。


「……はっ!」


 勢いよく、私はベッドの上で身を起こした。


 冷たい汗。鼓動の速さ。喉の渇き。


 でも、今までのように怖さも、苦しさも感じない。


「……逃げなかった……」


 初めて打ち勝てた? あの影に、自分から立ち向かった。


 ヴィクター様や、リュシアちゃんの顔が浮かんで消えた。


 手はまだ震えている。怖かった。あのまま夢の中で殺されていたかもしれない。


 けれど、心のどこかで、ほんの少しだけ、自分を褒めたくなっていた。


「ありがとうございます……ヴィクター様」


 あの人が見せてくれた背中。


 あの人が言ってくれた言葉。


 君はできる。


 たったそれだけで、私は、強くなれる気がした。


 明日、また笑顔で会いたい。




《side:???》 


 夜が降りる。月の光が雲に隠され、王都の空が深く沈む頃。


 少女の寝息が、静かな学舎の部屋に響いていた。


 その夢の隙間に、私は滑り込む。


 エリス。


 可愛い子だ。


 幼く家族を失って絶望を知った愛しい子。


 魔力の素質、無詠唱への適応性、そしてなにより脆い心。


 なんと素晴らしい素材。


 闇を孕みながら、光を信じて生きようとする未熟な希望。


 それはとても……甘い。


 少女の寝台の脇、月影の落ちる床に私は芽吹く。影から生まれる形のない存在。


「……また……こないで……お願い……やめて……」


 寝言が洩れる。


 彼女の瞼はわずかに震えている。額に汗。喉を詰まらせるように、静かな呻き。


 ああ、良い兆候だ。順調に浸透している。


 私は夢をつかさどる。


 与えるのは、過去に見た恐怖。


 あの村を焼いた絶望の魔物たち。


 それを記憶の奥から引きずり出し、形にする。


 そして、彼女の中に広がる魔力の器を、恐怖という刺激で拡張していく。


 恐怖。痛み。苦しみ。それこそが、魔力の源に直結する最短の刺激。


 そして、私にとって甘美な食事になる。


 もっともっと、高めてあげよう。


 やがて、この子は、私を完全に受け入れるだろう。


 自分の身を守るために力を振るう、呪われた少女として目覚めさせる。


「……だれか……たすけて……ヴィクターさま……」


 甘えた声で名を呼ぶ。


 くくく、希望をさらにもったようだな。


 誰が彼女を救うというのか。誰も救えない。


 人は、夢に堕ちてこそ輝くのだから。


「来なさい、影のあなた。私は、ここにいるわ!」


 (なっ! どういうことだ?!)


 これまで彼女が夢から覚めたことなどないというのに!


「ありがとうございます。ヴィクター様」


 誰だ?! 誰が私の邪魔をしている。


 弾き出された私は窓の外から、彼女を見つけめる。


♢ 


《side:リュシア》


 アハっ! 私は屋根の上にいた。


 学舎の中央塔。その最も高い尖塔に立ち、風に髪をなびかせながら。


 匂いがした。


 甘ったるい、腐った果実のような魔族の気配。しかも、それは夢を媒介に寄生するタイプ。


「なるほど……夜にだけ寄る寄生型。少女の夢を媒体に、魔力を喰らう魔族か。だから昼間は気配がなかったのね」


 それも、かなり古い部類のものね。ゆっくり、時間をかけて育てる寄生体質。


 私は瞳を細め、空間を歪ませる。


 視界の先に、見えた。揺れる黒煙。少女の寝台にぴたりと寄り添い、呟く影。


「……あなたは、まだ気づいていないようだけど」


 私は屋根の上で口元を綻ばせた。


 ご主人様は、こういう間接的に攻めるタイプを嫌いそうね。


 闇から闇へ、夢を通じて少女を堕とすつもり?


「悪くない趣味だけど……その子、すでに観察済みなのよね。残念」


 私は結界の構築を開始する。月光を指先に集め、魔族の通路を一つずつ閉じていく。


 こっそりと、だが確実に。


 明日には、ご主人様に夢に棲む影の正体を報告することになる。


 あとは……もう少しだけ観察しましょうか。


 その娘が、どこまで夢に飲まれるのか。


「貴方が、どんな顔で引き裂かれるのか……楽しみにしているわよ、夢魔ナイトメアさん」


 月の光が、静かに雲を割って、影を照らし始めた。


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