《side:エリス》
暗闇が、また来た。
深い深い闇の中で、私は一人、ただ立っている。
足元には、灰になった村の跡。
焼け焦げた家々。赤黒く染まった地面。
風が吹くたびに、聞こえるのは悲鳴。遠くで崩れる木の軋む音。何かが引きずられていく湿った音。
「……また、あの子だ」
丘の上に、影が立っていた。
白くて長い手足、そして、ぼんやりと灯る赤い瞳。
人の形をしているのに、絶対に人間じゃないと分かる。
あれは、あの夜、村を焼いた何かだ。
私の魔力に反応して現れた、名も知らぬ存在。
夢の中で、何度も何度も出会っては、追いかけられる。
逃げても逃げても、最後には飲まれて、泣きながら目を覚ます。
「もう……嫌なの」
震える指先を握りしめる。ふと、指先が熱を帯びた。
掌に、小さな光がともる。焔の魔法。
私は、この三年間、ずっと鍛えてきた。魔法使いとしての基礎。詠唱。展開。発動。
誰にも負けたくない。あの方のように、ヴィクター様みたいに、誰かを守れる存在になりたい。
「……私は……強くなるって、決めたの!」
光る魔法陣が、足元に浮かび上がる。
影が、ざわり……と音を立てて動いた。
私は、足を踏み出す。
怖い。怖い。でも。
逃げるだけの夢には、もう飽きた。
「私は負けない! 立ち向かうって決めたの」
こういうことなんだって、ようやく分かった。
ヴィクター様を見習いたい。
怖いものがなくなるわけじゃない。
それでも、逃げずに戦おうって思えたことが、今の私には、誇らしかった。
「来なさい、影のあなた。私は、ここにいるわ!」
魔法が発動する寸前、夢が。
ぱんっと破裂するように、崩れた。
「……はっ!」
勢いよく、私はベッドの上で身を起こした。
冷たい汗。鼓動の速さ。喉の渇き。
でも、今までのように怖さも、苦しさも感じない。
「……逃げなかった……」
初めて打ち勝てた? あの影に、自分から立ち向かった。
ヴィクター様や、リュシアちゃんの顔が浮かんで消えた。
手はまだ震えている。怖かった。あのまま夢の中で殺されていたかもしれない。
けれど、心のどこかで、ほんの少しだけ、自分を褒めたくなっていた。
「ありがとうございます……ヴィクター様」
あの人が見せてくれた背中。
あの人が言ってくれた言葉。
君はできる。
たったそれだけで、私は、強くなれる気がした。
明日、また笑顔で会いたい。
♢
《side:???》
夜が降りる。月の光が雲に隠され、王都の空が深く沈む頃。
少女の寝息が、静かな学舎の部屋に響いていた。
その夢の隙間に、私は滑り込む。
エリス。
可愛い子だ。
幼く家族を失って絶望を知った愛しい子。
魔力の素質、無詠唱への適応性、そしてなにより脆い心。
なんと素晴らしい素材。
闇を孕みながら、光を信じて生きようとする未熟な希望。
それはとても……甘い。
少女の寝台の脇、月影の落ちる床に私は芽吹く。影から生まれる形のない存在。
「……また……こないで……お願い……やめて……」
寝言が洩れる。
彼女の瞼はわずかに震えている。額に汗。喉を詰まらせるように、静かな呻き。
ああ、良い兆候だ。順調に浸透している。
私は夢をつかさどる。
与えるのは、過去に見た恐怖。
あの村を焼いた絶望の魔物たち。
それを記憶の奥から引きずり出し、形にする。
そして、彼女の中に広がる魔力の器を、恐怖という刺激で拡張していく。
恐怖。痛み。苦しみ。それこそが、魔力の源に直結する最短の刺激。
そして、私にとって甘美な食事になる。
もっともっと、高めてあげよう。
やがて、この子は、私を完全に受け入れるだろう。
自分の身を守るために力を振るう、呪われた少女として目覚めさせる。
「……だれか……たすけて……ヴィクターさま……」
甘えた声で名を呼ぶ。
くくく、希望をさらにもったようだな。
誰が彼女を救うというのか。誰も救えない。
人は、夢に堕ちてこそ輝くのだから。
「来なさい、影のあなた。私は、ここにいるわ!」
(なっ! どういうことだ?!)
これまで彼女が夢から覚めたことなどないというのに!
「ありがとうございます。ヴィクター様」
誰だ?! 誰が私の邪魔をしている。
弾き出された私は窓の外から、彼女を見つけめる。
♢
《side:リュシア》
アハっ! 私は屋根の上にいた。
学舎の中央塔。その最も高い尖塔に立ち、風に髪をなびかせながら。
匂いがした。
甘ったるい、腐った果実のような魔族の気配。しかも、それは夢を媒介に寄生するタイプ。
「なるほど……夜にだけ寄る寄生型。少女の夢を媒体に、魔力を喰らう魔族か。だから昼間は気配がなかったのね」
それも、かなり古い部類のものね。ゆっくり、時間をかけて育てる寄生体質。
私は瞳を細め、空間を歪ませる。
視界の先に、見えた。揺れる黒煙。少女の寝台にぴたりと寄り添い、呟く影。
「……あなたは、まだ気づいていないようだけど」
私は屋根の上で口元を綻ばせた。
ご主人様は、こういう間接的に攻めるタイプを嫌いそうね。
闇から闇へ、夢を通じて少女を堕とすつもり?
「悪くない趣味だけど……その子、すでに観察済みなのよね。残念」
私は結界の構築を開始する。月光を指先に集め、魔族の通路を一つずつ閉じていく。
こっそりと、だが確実に。
明日には、ご主人様に夢に棲む影の正体を報告することになる。
あとは……もう少しだけ観察しましょうか。
その娘が、どこまで夢に飲まれるのか。
「貴方が、どんな顔で引き裂かれるのか……楽しみにしているわよ、
月の光が、静かに雲を割って、影を照らし始めた。