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第57話

《side:ヴィクター》


 夜が更ける。


 学園の灯りはすでに落ち、王都の空にかかる雲が、月明かりを薄く遮っていた。


 アースレイン家の王都屋敷。応接室で一人、僕は文書を眺めていた。


 演習での魔物暴走事件。


 教師陣は「結界の不調による一時的な魔力漏れによる魔物が暴走してしまった」と説明していたが、それは表向きの言い訳に過ぎない。


 本来あの結界は、国家管理の上級結界術で構成されている。


 歪みがあるなら、それは誰かの意図による魔力阻害や結界を緩める因子があった。もしくは、結界術以上の魔力を持つ者が何かしらの事件を起こしているに違いない。


 思案する答えに……応えるように、静かに扉が開いた。


「失礼するわね、ご主人様」


 リュシアだった。


 白銀の髪は夜の灯りで月光のように輝き、ゆるやかなウェーブを描く。


 肩をわずかに出した深紅のドレス。目にした瞬間、それがただの報告のための装いではないと悟った。


「……魔族がいた、という報告でいいのか?」


 問いに、リュシアは唇の端を上げ、くすりと笑った。


「アハっ! さすがご主人様、察しが早くて助かるわ」


 彼女は足音も立てずに近づき、僕の机に手を添える。紅の瞳がまっすぐに、僕の目を見つめていた。


 その瞳が怪しく僕を見つめて、光を放つ。


「ご褒美をもらいにきたと言えばいいかしら?」

「……で、どういう種類の魔族だ?」

「アハっ! ご主人様は連れないのね」


 僕の心は冷たい氷のように動かない。だが、それをリュシアが望むのであれば与えても良いとも思っている。


「あの魔女っ子についているのは、夢魔ナイトメアよ。それも、かなり古い個体。寄生型で、幼い頃から彼女の成長を見守っていたように思わうわね。夜ごとに少女の夢に入り、恐怖で魔力を増幅させて喰ってるみたい」


 これまでとは違う種族の魔族。


 こうやって関わり合いなるようにわかるが、伝承や物語n登場するような者たちは実在に存在する。


 そして、普通の生活の中に溶け込んで、こちらの世界に干渉しているというわけだ。


「夢魔……エリスに」

「ええ」


 リュシアは頷き、すぐ唇が触れそうなほどに近くまで寄ってきた。


 僕の椅子の肘掛けに腰をかけるようにして、片足を組む。肌に張りつくような布地が、曲線を際立たせていた。


 そのまま、僕の膝に降りてくる。


「アハっ! てっきり拒絶されるのかと思っていたわ」

「……お前と僕は、服従の契約を結んだことで、一心同体であることは、この三年で知ることができた。その上で、お前はよく働いてくれている。だが、お前に対して、私はなんの感情も抱かない」

「ねぇ、ご主人様。私は愛情が欲しいんじゃないわ。ご主人様から与えられる甘美なら無関心。そして、絶望と失望。何よりも暗闇に落ちたご主人様の壊れた心に体を通して触れたい」


 上着のボタンを外していく。リュシア。僕は何も抵抗することなく彼女の冷たくて白い手を受け入れる。


「魔族の本体はまだ姿を現してないけど……次の満月あたりで誘い出せると思うわ。そのための下準備もしておいた。……ね、褒めてくれるでしょ?」


 シャツを脱がされて、リュシアが報告と同時に、僕の肩に頭を乗せる。


「……よくやった」


 素直に僕はリュシアを褒めて、頭に手を置いた。


 リュシアの表情が嬉しそうな声を出す。


「アハっ! じゃあ、ご褒美もらっていい?」

「ああ」


 僕の問いに、リュシアは目を細め、唇を寄せるようにして囁いた。


「ご主人様の血をもらうわ……」

「……血?」

「ええ、いいかしら?」

「ああ」


 許しを与えると、リュシアは、肩に噛み付いた。


 チュウチュウと血を飲むリュシアは恍惚とした表情をしている。


 僕は血を飲まれながら、ただ、空を眺めた。


 痛みはない。ただ、体から力が抜けるような感覚は、自分の死を感じさせながらも、どうでもいいと思える心地よさを感じる。


「アハっ!」

「それで満足なのか?」


 首筋から顔を上げたリュシアの口元は真っ赤に染まっていた。


「ううん、足りない。でも……その足りなさが、たまらないの。だって、ご主人様から血を抜かれて死が近づいたのに、快感を感じているのが伝わってくるんだもん」


 彼女の手が僕の胸に触れた。鼓動を確かめるように。


「ねぇ、ご主人様。私が欲しいのは……ただの快楽じゃないの。あなたが、私を見つめるその目の奥。そこに映る“唯一”でありたいの」


 その言葉は、媚びでも演技でもなく。獣が心から望む“渇き”のようだった。


 僕は静かに目を細め、リュシアの額に手を伸ばす。


「お前がそれを望むなら、しばらくここにいればいい」

「……アハっ! ありがとう、ご主人様」


 その夜。報酬という名の血を手にした彼女は、僕の腕の中で静かに微笑んでいた。


 だが、その眼の奥には、どこか深い“孤独”の影が、月のように淡く滲んでいた。


 僕は、それを感じても優しくしようとは思わない。


 孤独は理解できても、それを癒してやる方法を僕自身が持っていないからだ。


 だからこそ、リュシアにだけ見せてしまうのかもしれない。自分の心を。

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