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第58話

《side:ヴィクター》


 朝の冷気が、皮膚に痛いほど心地よい。


 屋敷の庭で剣を振るう。三年間一度も休まず続けている日課であり、これをしなければ、目覚めが悪いように感じる。


 昨夜の血の余韻がまだ体内に残っている気がした。


 リュシアの報酬として差し出した血と引き換えに得られた情報は、十分すぎる価値があった。


 夢魔ナイトメア


 名前通り、夢を媒介にして対象に寄生する。


 恐怖やトラウマを引き出して精神を蝕む魔族。


 強化された魔力の流れと、被害者の深層心理に干渉する能力を持つ。


 それがリュシアからもたらされた情報であり、もしかしたら、未来でエリスを泣かせた原因になる存在。


 未来では、天才魔法使いであり、戦争においてもっとも活躍した英雄の一人。


 今のエリスは、演習を共に戦った、純粋な魔法少女。


 彼女が過去に囚われていた恐怖の体験。


 魔物に襲われた村、焼け落ちた家、失われた家族。


 そこにつけ込んだのが、夢魔というわけだ。


 未来の僕は、魔族の存在を知らず、エリスの苦しみを理解していなかった。

 だが、エリスは直接的な裏切りを何もしなかった。


 ただ、他の者たちの行動を制御していたのかも僕にはわからない。


「演習の異常は、魔物の暴走だけじゃない。……人の内側にも、何かが起きていたように感じられる」


 僕は鍛錬を終えて、アースレイン家・王都屋敷の書斎に座り、リュシアが描いた簡易結界図を見つめていた。


 これは、魔族が寄生していた夢の痕跡を記した物であり。


 エリスの部屋の上空に、特異な魔力の渦が発現する。


 それは一般人には知覚できないが、魔族、あるいはそれに準ずる存在ならば察知できる異常の波。


「表に出てこない分、厄介だな」


 力を振るって戦場で切り裂く敵よりも、静かに心を蝕む敵の方がよほど厄介だ。


 だからこそ、僕は動かなければならない。


 リュシアの調査により、寄生はまだ浅いと判断された。


 未来のエリスは、いったい何年間、苦しんでいたのだろうか? 今のうちに、根を絶つ。エリスの心が完全に飲まれる前に。


 ♢


 陽射しのもとで、生徒たちがそれぞれ昼食を取っている中庭。


 僕はベンチに腰掛け、視線だけで探していた。すると、木陰でパンをかじっているエリスの姿が目に入った。


 教室や、食堂ではなく。一人で食事をすることをドイルが調査してきた。


 夢魔の存在を知ってから、エリスを見ると少し顔色が悪いように思える。


 夜、眠れていないのかもしれない。


「……エリス」


 声をかけると、彼女は驚いて顔を上げた。


「ヴィクター様っ……あの、こんにちは!」


 少し慌てたように立ち上がる。だが、僕は手で制して座るように促した。


「少し、話をしてもいいか?」

「はい! もちろんです」


 彼女の隣に腰を下ろした。


 エリスは僕が来たことで緊張したように肩を強張らせている。


「エリス。最近、眠りはどうだ?」

「え……えっと……普通だと思います……」

「演習後で、疲れていないか?」

「ヴィクター様が私の心配を!!!」


 何を驚かれているのだろうか? 僕としては夢魔のことを探りたいだけなのだが。


「前に、村を魔物に襲われる話をしていただろ」

「覚えてくれていたんですか?」

「ああ、この間の演習で、悪い記憶が蘇ったんじゃないか? 夢を、よく見るだろう。焼けた村。失われた何か。影のような存在に追われる夢」

「……どうして、それを……? 実は演習前からなんです」


 震える声。体が小さく揺れている。


 彼女の夢に入り込む存在。その影は、少しずつ彼女の心を蝕んでいる。


「そうか、色々と大変だったんだな」


 やはり、僕と知り合う前から魔族に蝕まれていたのか……。


「……うそ……ヴィクター様が私を心配している…?」

「僕から言えることは、君が悪いわけじゃない。恐怖に取り憑かれることなく、前を向こうとしている。君のせいではないということは、まず覚えておいてほしい」


 僕は静かに言葉を重ねた。


 彼女は混乱していたが、やがて小さく頷いた。


「ありがとうございます……誰かにそう言って欲しかった。まさか、ヴィクター様に言われるなんて。夢が、怖くて。でも、逃げるしかできなくて……でも、ヴィクター様のお姿を見てからは自分でも立ち向かおうと思うようになりました!」


 エリスは強い女性だ。だからこそ、戦場で背中を預けることができた。


 そんな彼女がずっと苦しんでいるのに、僕は気づくことができなかった。


「それでいい。何かあれば力を貸そう」


 彼女は唇を噛んだあと、力強く頷いた。


「はい……私も、自分の中にいる、何かに負けたくありません。お願いします、ヴィクター様……! その時は私を支えてくれますか?」

「ああ、任せてくれ」


 エリスの目は、確かに光を宿していた。


 影に飲まれそうな弱さの中で、それでも光を信じようとする、愚直な強さ。


 それがどこまで本物か、僕はエリスを見極める。


 ♢


 その日の夜。リュシアに再度、伝えた。


「夢魔を確実に追い詰める。次の満月で奴を引きずり出す。それまでに、エリスの夢に完全に入る方法を探ってくれ」

「アハっ! ご主人様のためなら、どこへでも。夢の奥にだって、連れて行ってあげるわ」


 リュシアが微笑む。月光を受けた彼女の顔は、闇の導き手として、魔族たちへ僕を誘い込む。


 影の中に棲む敵を暴き、断罪する。


 それが、僕のやるべきことだ。



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