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第59話

 夜の屋敷は静かだった。


 応接室のランプの灯だけが、薄暗い部屋を照らしている。


 机の上には、リュシアが集めた報告書がある。


 エリスを蝕んでいた夢魔ナイトメアの存在、行動範囲、そして寄生の仕組みすべてが、そこに記されていた。


 だが、問題は一つ。


 ナイトメアは、実体を持たない。


 夢の中でのみ存在し、現実世界に干渉するには媒介を必要とする。


 だが、夢魔は魔物たちを活性化させるために、実体を手に入れているという。


「……これはエリスが望むことじゃない。僕が勝手に行うことだ」


 エリスに夢魔の存在を教えるつもりはない。だが、彼女が真っ直ぐに未来へ歩める手伝いをしたい。


 彼女に対して、僕はそれだけの恩を感じている。


 感情はなくなっても、彼女が裏切り者ではなく、苦しんだ末に何も選べなかったのだとしたら、僕は彼女の涙が流れない未来にしてやりたい。


 僕と深く関わることなく、世界の崩壊など関係なく。純粋に魔法を学び。


 人を殺す道具として、魔法を使うのではなく。彼女は本来望んでいた魔法の研究をして、人を助け、魔法使いとして純粋に魔法を楽しめる人生を。


「ご主人様、準備はいいかしら?」

「ああ、教えてくれ」


 口に出しても、それは容易なことではない。


 夢に潜る術は、俺にはない。


 だが、それを知っている者を僕は従えている。


 今日のリュシアは、初めて出会った時と同じ黒いローブに身を包んでいる。


 彼女にとっての魔族スタイルというわけだろう。


 赤い瞳に妖しい笑みを浮かべ、漆黒のマントを翻して椅子に腰かける。


「……今回は、お前の技術を借りる」

「アハっ! ご主人様が素直に頼ってくれるなんて、三年で初めてじゃない?」


 これまでの僕は裏切り者の真実を知り、葬る方に力を注いできた。


 それは戦闘であり、妖精を殺すという選択。


 だが、今回は、エリスには関係ない場所で、魔族を葬る。だが、その方法を僕は持っていない。


 冗談めかしながらも、リュシアの目は真剣だった。


「ナイトメアを引きずり出す方法を教えろ」

「もちろん。ただし、それには条件があるわ」


 彼女は指を一本、すっと立てて、囁くように言った。


「夢魔は、実体を持たない存在だった。だけど、魔族を強化する際に、実体を持った。その実体を見つけなければならない。そして、実体の夢魔と、夢の夢魔を両方倒す必要がある。夢と現実の境界を揺らすためにね」


 リュシアの説明を聞いても、意味がわかっていない。


「具体的には?」

「アハっ! せっかちなんだから。夢に現れるナイトメアは私が倒して上げる。だけど、実体の夢魔にはご主人様が一人で戦う必要があるわ」

「問題ない」


 どれだけ強かろうと、僕は未来の自分が持っていた力の半分を取り戻している。


 四階の上位。すでに五階に手をかけた。


 あとは、魔力の触媒を手にして、体に取り込むことで、器を広げるだけだ。


「アハっ! 頼もしいわね。なら、エリザベスに実体化した夢魔の居場所を教えてあるわ」


 リュシアは手のひらに魔力を灯す。


 紫黒の光が、部屋の空気をねじ曲げるように揺らめいた。


「私は夢魔へを倒すために、エリスの夢の中に入り、直接名前を刻み込むわ。その瞬間、ナイトメアは境界を超えて、現実に引きずり出されるの」

「……なるほど。引きずり出したあとは?」

「好きに殺していいわ」


 笑いながら、リュシアが唇に指を当てた。


「だけど、腐っても魔族。何が現れるかはわからない。ナイトメアはご主人様にとって最も忌むものの姿を借りて現れる可能性があるわ」


 俺の最も忌むものか……。


 処刑台の記憶。裏切った仲間たち。壊れた日々。


 ……どれが出てきても、斬るだけだ。


「問題ない」

「アハっ! さすがはご主人様」


 リュシアは、魔方陣を描き始めた。漆黒の紋様が床に広がり、空気の密度が変わっていく。


「この儀式には、私の血と、ご主人様の魔力が必要よ」


 リュシアが、自らの指を噛んで血を滴らせ、僕の手を取った。


 彼女の血と、僕は魔力を流して、魔法陣の中で混じり合う。


 中央の魔方陣が淡く輝き出す。


「境界は開くわ。だけど……私が最も欲しいのは、この瞬間」

「……なぜだ」

「だって、ご主人様の心に触れられるのだもの。血と魔力が混じり合うの」


 リュシアは、妖艶な笑みを浮かべた。


「私は、ご主人様の全てを知りたい。だから……この瞬間のご主人様を独占できるのは私だけ」


 その声は、蠱惑的で、哀しくて、どこか愛おしいものに感じられた。


 そして、僕の心がわかるように、不意にリュシアの記憶が僕に流れ込んでくる。


 それは、誰かによってリュシアの胸に剣を突き立てられて、力を奪われる光景。


 リュシアは自分のことを覚えていないと言っていた。


 だけど、彼女にも過去があり、こんな形で、彼女の記憶を見ることになるなど思いもしなかった。


「さあ、行ってきます。ご主人様」


 そう言って魔法陣の中へ消えていくリュシア。


 僕の元に残ったエリザベスが尻尾を振りながら、僕を待っていた。


「エリザベス。連れて行ってくれるか?」

「ワン!」

「ナイトメアを……狩りに行こう」

「ワン!」


 僕はエリザベスに導かれて、夢魔の実体を殺すために、屋敷を出た。



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