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第60話

 ダイワウルフである、エリザベスについていくと。


 月明かりが照らす森へ辿り着いた。


 ここは、『魔獣鎮圧シミュレーション』のときに使った森の中だった。


 だが、ここに夢魔がいるんだと思うだけで、前回とは別物のように空気が重く。


 何よりも、夜だというのに、魔物たちが沈黙していた。


 おかしい。


 葉が擦れる音も、獣の鳴き声もしない。ただ、ひたすらに空気が重く、湿った気配だけが、森全体を支配していた。


「……ここか」


 漆黒の毛並みを揺らしたエリザベスを撫でてやる。


「ワン!」


 彼女は、ただの魔物ではない。


 リュシアの術で服従したとはいえ、高い知性と判断力を持ち、今では忠実な伴として僕に付き従っている。


 三年で随分と実践経験を積んで、戦闘でも、その辺にいる魔物では相手にならない。モフモフの毛並みを僕の足に擦り寄るようにして、甘えてくる。


「行こうか、夢魔はどこにいる?」

「ワン!」


 低く唸るように、鼻先で森の奥を示す。


 進んでいくと、気配が僕でも感じられるほどに濃密な魔力の気配を感じることができた。


「エリザベス……ありがとう。ここから先は、一人で行くよ」

「クゥ〜」

「大丈夫だ。帰っていてもいいぞ」

「ワン!」

「待っているのか? なら、すぐに終わらせてくるよ」


 エリザベスは微かに頭を下げるようにして静かに後退した。


 僕は濃密な魔力によって、その存在が、他の魔族を喰いすぎたことを理解する。


 この森に潜む幾百の魔物たち。


 人が手を付けぬ領域の奥深くで、そいつはずっと喰い、蓄え、肥え太っていた。


 ただの影にすぎなかった夢魔は、現実の魔物の肉を喰らうことで実体を得た。


 そして、次に喰おうとしているのが、エリスというわけだ。


「今日で終わりにしよう」


 僕は《冥哭》を抜く。


 全身に肉体強化と、無属性の魔力無効化を発動する。


 僕には、魔法も異常状態攻撃も通じない。


 三年で、さらに磨き上げた無属性は、ただ無効化するだけでなく、事前に消去してしまうこともできる。


 空気が震え、黒き霧が刀身から立ち昇る。


「夢魔は夢の中では最強なのだろう? だが、現実では不完全な存在だ。何よりも……お前は喰いすぎた。それが逆に弱点になる。実体を持ったなら、僕でも殺せる」


 だからこそ、今が好機。


 僕は歩を進める。森の奥、腐った魔力が漂う中心へ。


 そして、そこにいた。


 影の塊が、ぐるりとこちらを振り返った。


 頭だけが人。胴体は獣。手足はねじれた骨と筋肉の混合。


 顔面だけが人間のように笑っていた。


『やっと……きたか……アークレインの、血筋よ……』


 声が脳内に直接響く。喋っていないのに言葉が聞こえる感覚。


 幻聴や、幻覚を得意とする魔族だ。


 俺は静かに構える。


 この一撃で、すべてを終わらせる。


「お前がエリスに近づいたこと……後悔させてやる」

『やれるものならばやってみろ。貴様の存在はあの子にとって邪魔だ!』


 漆黒の剣が月を裂くように振り上げられた。


 斬撃一閃。


 《冥哭》の刃が夜気を裂き、漆黒の斜線となって夢魔の胴体へと叩き込まれる。


「……! 抜けた……っ?」


 刃は確かに命中した。しかし、感触がない。紙を斬ったような空虚な手応え。


 黒い肉体が霧のようにほどけ、俺の後ろへ回り込む。


「殺せる……はずだろう……? 現実に落ちた夢ならば……!」


 耳元で囁く声。音のない足音。


 振り向きざま、後方へ一文字の斬撃。


「冥哭・二ノ型:迎刃!」


 刀身が薙ぎ払った先、空間が爆ぜる。


 斬った。確かに、今度は斬った。


 夢魔の半身が、黒い煙をまき散らしながら吹き飛ぶ。


 それでも、崩れた肉が再びまとまり、獣のように両腕を振りかぶって襲いかかる。


「リュシアか? あいつか夢の世界の夢魔と戦って弱ったのか? 恐れを与え、魔力を解き放ち、実体に弱らせた?!」


 僕は、攻撃が通る間に奴の体を斬り飛ばす。


 骨と筋肉がむき出しになったその腕は、血を流すでもなく、地に落ちた。


 ……やはり、現実に適応しきっていない。不安定な存在なんだ。


 手応えはあるが、致命傷には至らない。


「……だったら、殺しきるまでだ」


 僕は地面を蹴った。低く、速く。地を滑るように夢魔へ迫る。


 だが、奴もまた応じるように、脚部を獣に変えて跳躍する。


 空中でぶつかる。


 爪が、牙が、悪夢の咆哮が、全方位から俺に襲いかかる。


「冥哭・四ノ型:螺旋断!」


 力をためた右腕で円を描き、斬撃を螺旋状に展開。


 迸る魔力が空間ごと抉り、牙ごと頭部を吹き飛ばす。


 地面に叩きつけられた夢魔が悲鳴を上げる。


『が、あぁぁぁ……!』


「化け物のくせに、痛みで怯えるのか?」


 僕は背中から魔力を集束させる。


 足元に浮かぶ黒き術式が剣へと伝わり、刀身をより深い影で染め上げる。


「これで終わりだ。冥哭・終ノ型:黒刃葬」


 踏み込む。


 一歩。


 二歩。


 次の瞬間、僕の姿は闇と化して、夢魔を飲み込む。


 爆音と共に距離を詰め、斬撃が夢魔の胸元を貫いた。


 刃が抜ける。


 夢魔の身体が、映像のように一瞬遅れて崩壊を始めた。


『バカな……お前はなんだ?! なぜ何も恐れない?! どうして、私の姿を見ても怯えない! こんな……はずでは……全てを喰らう……!』


「お前はただの寄生虫だ。僕はお前が知るで全ての絶望をすでに経験している」


 空へ。黒い塵となって舞い散る。


 僕の視界に残ったのは、ただ静まり返った森と、月明かりだけだった。


 深く息を吐く。


 《冥哭》を鞘に納め、僕は空を仰いだ。


 もう、僕の剣に迷いはない。


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