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第64話

《side:レオ・シュバイツ》


 胃が焼けるようだった。


 鈍い痛みが、喉から胸へ、じくじくと這い回る。


『魔獣鎮圧シミュレーション』


 あの日の失態は、まだ脳裏にこびりついて離れない。


 私はシュバイツ侯爵家の嫡男、賢者の血を引く者だ。

 それが訓練演習で従者二人を失った。


 無様に。


 無力に。


 あの者たちを救い出すことすらできず、ただ足を竦ませた。


 そして……そして、よりにもよって。


 アースレイン家のヴィクターと、カテリナ公爵家のフレミアに救われた。


 同じ四大貴族。私たちは同格だ。


 だからこそ……許せない。


 あの冷たい瞳、あの誰も寄せ付けない絶対的な存在感。

 私が必死に築こうとしているものを、奴は当然のように纏っていた。


 無傷で、当然のように。


 フレミアもそうだ。あれほどの家柄の令嬢が、当然のようにヴィクターの隣にいる。

 手を伸ばしたのに、決して届かない高み。


 心が焼ける。


 嫉妬。

 憎悪。

 羨望。


 それらが幾重にも絡み合い、私の中で形を変えながら膨れ上がっていく。


「……私だって賢者の血を引いているんだ」


 吐き捨てるように呟いた。


 血筋では負けていない。シュバイツ家は、代々王国に賢者を輩出してきた名門だ。

 幼い頃から周囲に持ち上げられてきた。

 だから今回の失敗が許せない。


「……」


 内心で否定しても、わかっている。


 本当は、私は凡庸だ。


 魔力の総量も、操作技術も、魔術回路の精密さも、すべてシュバルツ家で優れているわけじゃない。


 突出した才能はない。


 努力して、積み上げて、ようやく賢者の嫡男の看板を維持しているだけだ。


 本物じゃない。


 だが、アースレイン家のヴィクターは違う。頂点に立つために作られたような威圧を持っている。並んで歩くことすら許されない。その冷たく澄んだ瞳に、私など眼中にないような、瞳に映っていなかった。


「……ふざけるな」


 ギリ、と奥歯を噛み締めた。


 なぜ、僕ではなかった?

 なぜ、僕はああなれない?

 なぜ、あいつばかりが!


 拳を握り締め、爪が手のひらに食い込む。


 屈辱。悔しさ。情けなさ。それでも、手放せない。


 私には、賢者という称号しかない。


 この肩書を失ったら、僕はただの、ちっぽけな男にすぎない。


 追い抜いてやる。


 必ず、例えどんな手を使っても。


 ヴィクター、フレミア、すべてを超えて。


 王国で最も偉大な存在に、僕はなる。


 そのためなら、どんな闇にでも手を染めてやる。


 誰も気づかないところで、僕は静かに誓った。


 この屈辱を、忘れはしない。


 あの日、僕を見下ろした奴らを──必ず、後悔させてやる。



 人払いされた古びた塔の地下室。


 ここは、かつて禁術研究が盛んだった頃に建てられた遺構だという。


 今では誰も近づかない。

 いや、近づけない。


 空気は濁り、土の匂いに混じって、鉄と血の匂いがこびりついている。


 薄暗い魔灯だけが灯る部屋の中央に、私は立っていた。


 古文書を片手に、震える指で最後の詠唱をなぞる。


 机の上には魔法陣が描かれていた。

 血で、それも私自身の血で。


「……シュバイツ家は、正道の賢者の家系……」


 口に出して、すぐに乾いた笑いが漏れた。


 なら、なぜ私はこんなところにいる? わかっている。もう戻れない。


 あの日の劣等感。屈辱。あの冷たい目。あの圧倒的な力。


 それを超えるには、正道では辿り着けない。


 だから、僕は選んだ。


 禁じられた知識。

 触れてはならない力。


 悪魔召喚。


「……応えろ。契約に応じるものよ」


 魔力を絞り出し、血で描いた魔法陣へ流し込む。


 陣が淡く光を帯びる。


 そして、室温が一気に下がった。


 吐く息が白くなる。骨の髄まで凍えるような寒気が、背筋を駆け上がる。


 それは、世界の理から逸脱した異質な存在の気配だった。


「……来い」


 魔法陣の中心から、黒い靄が噴き出す。


 煙の中に、形が現れる。


 漆黒の鎧を纏った騎士の姿。顔はない。ただ、闇の中に赤い光点だけが浮かんでいた。


『名を、問う』


 低く、震えるような声。


 耳ではなく、脳に直接響く。


 私は、全身を震わせながらも、一歩、踏み出した。


「レオ・シュバイツ。賢者の家系にして、王国の未来を担う者」


『……欲するは、なにか』


「力だ」


 迷いはなかった。


「私には、才能がない。だから……力が欲しい。全てを、超える力を」


 ヴィクターを。

 フレミアを。

 王族を。


 すべて、私の足元に跪かせるだけの。


『──代償を、差し出せ』


 代償。悪魔と契約する以上、それは当然だった。


 僕は一瞬だけ目を閉じ、すぐに答えた。


「……この魂をくれてやる。全てを叶えた後にな」


『よい』


 黒い騎士が、ゆっくりと手を差し伸べる。


 その手が僕に触れた瞬間。


 焼けるような痛みが、全身を駆け巡った。


「が、あぁぁあああ!!」


 魔力の奔流。

 血が逆流する感覚。

 骨が軋み、肉が裂け、意識が焼き切れそうになる。


 だが、それでも得た。


 手に入れた。


 この身に刻まれたのは、禁断の魔紋。


 私の魔力は、今までとは比べ物にならないほど、異質に、濃密に、膨れ上がっていた。


「……これが……悪魔の力……!」


 震える指を見下ろす。


 笑いが止まらなかった。


 これでようやく、あの頂に立てる。


 ヴィクター。

 フレミア。


 すべて、僕の前に跪かせてやる。


 必ず。

 絶対に。


『契約、完了』


 黒き騎士は、再び闇へと溶けるように消えた。


 だが、僕の中には、確かに奴の力が刻まれている。


 誰にも、もう止められない。


 誰にも、僕を見下ろさせない。



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