《side:レオ・シュバイツ》
胃が焼けるようだった。
鈍い痛みが、喉から胸へ、じくじくと這い回る。
『魔獣鎮圧シミュレーション』
あの日の失態は、まだ脳裏にこびりついて離れない。
私はシュバイツ侯爵家の嫡男、賢者の血を引く者だ。
それが訓練演習で従者二人を失った。
無様に。
無力に。
あの者たちを救い出すことすらできず、ただ足を竦ませた。
そして……そして、よりにもよって。
アースレイン家のヴィクターと、カテリナ公爵家のフレミアに救われた。
同じ四大貴族。私たちは同格だ。
だからこそ……許せない。
あの冷たい瞳、あの誰も寄せ付けない絶対的な存在感。
私が必死に築こうとしているものを、奴は当然のように纏っていた。
無傷で、当然のように。
フレミアもそうだ。あれほどの家柄の令嬢が、当然のようにヴィクターの隣にいる。
手を伸ばしたのに、決して届かない高み。
心が焼ける。
嫉妬。
憎悪。
羨望。
それらが幾重にも絡み合い、私の中で形を変えながら膨れ上がっていく。
「……私だって賢者の血を引いているんだ」
吐き捨てるように呟いた。
血筋では負けていない。シュバイツ家は、代々王国に賢者を輩出してきた名門だ。
幼い頃から周囲に持ち上げられてきた。
だから今回の失敗が許せない。
「……」
内心で否定しても、わかっている。
本当は、私は凡庸だ。
魔力の総量も、操作技術も、魔術回路の精密さも、すべてシュバルツ家で優れているわけじゃない。
突出した才能はない。
努力して、積み上げて、ようやく賢者の嫡男の看板を維持しているだけだ。
本物じゃない。
だが、アースレイン家のヴィクターは違う。頂点に立つために作られたような威圧を持っている。並んで歩くことすら許されない。その冷たく澄んだ瞳に、私など眼中にないような、瞳に映っていなかった。
「……ふざけるな」
ギリ、と奥歯を噛み締めた。
なぜ、僕ではなかった?
なぜ、僕はああなれない?
なぜ、あいつばかりが!
拳を握り締め、爪が手のひらに食い込む。
屈辱。悔しさ。情けなさ。それでも、手放せない。
私には、賢者という称号しかない。
この肩書を失ったら、僕はただの、ちっぽけな男にすぎない。
追い抜いてやる。
必ず、例えどんな手を使っても。
ヴィクター、フレミア、すべてを超えて。
王国で最も偉大な存在に、僕はなる。
そのためなら、どんな闇にでも手を染めてやる。
誰も気づかないところで、僕は静かに誓った。
この屈辱を、忘れはしない。
あの日、僕を見下ろした奴らを──必ず、後悔させてやる。
♢
人払いされた古びた塔の地下室。
ここは、かつて禁術研究が盛んだった頃に建てられた遺構だという。
今では誰も近づかない。
いや、近づけない。
空気は濁り、土の匂いに混じって、鉄と血の匂いがこびりついている。
薄暗い魔灯だけが灯る部屋の中央に、私は立っていた。
古文書を片手に、震える指で最後の詠唱をなぞる。
机の上には魔法陣が描かれていた。
血で、それも私自身の血で。
「……シュバイツ家は、正道の賢者の家系……」
口に出して、すぐに乾いた笑いが漏れた。
なら、なぜ私はこんなところにいる? わかっている。もう戻れない。
あの日の劣等感。屈辱。あの冷たい目。あの圧倒的な力。
それを超えるには、正道では辿り着けない。
だから、僕は選んだ。
禁じられた知識。
触れてはならない力。
悪魔召喚。
「……応えろ。契約に応じるものよ」
魔力を絞り出し、血で描いた魔法陣へ流し込む。
陣が淡く光を帯びる。
そして、室温が一気に下がった。
吐く息が白くなる。骨の髄まで凍えるような寒気が、背筋を駆け上がる。
それは、世界の理から逸脱した異質な存在の気配だった。
「……来い」
魔法陣の中心から、黒い靄が噴き出す。
煙の中に、形が現れる。
漆黒の鎧を纏った騎士の姿。顔はない。ただ、闇の中に赤い光点だけが浮かんでいた。
『名を、問う』
低く、震えるような声。
耳ではなく、脳に直接響く。
私は、全身を震わせながらも、一歩、踏み出した。
「レオ・シュバイツ。賢者の家系にして、王国の未来を担う者」
『……欲するは、なにか』
「力だ」
迷いはなかった。
「私には、才能がない。だから……力が欲しい。全てを、超える力を」
ヴィクターを。
フレミアを。
王族を。
すべて、私の足元に跪かせるだけの。
『──代償を、差し出せ』
代償。悪魔と契約する以上、それは当然だった。
僕は一瞬だけ目を閉じ、すぐに答えた。
「……この魂をくれてやる。全てを叶えた後にな」
『よい』
黒い騎士が、ゆっくりと手を差し伸べる。
その手が僕に触れた瞬間。
焼けるような痛みが、全身を駆け巡った。
「が、あぁぁあああ!!」
魔力の奔流。
血が逆流する感覚。
骨が軋み、肉が裂け、意識が焼き切れそうになる。
だが、それでも得た。
手に入れた。
この身に刻まれたのは、禁断の魔紋。
私の魔力は、今までとは比べ物にならないほど、異質に、濃密に、膨れ上がっていた。
「……これが……悪魔の力……!」
震える指を見下ろす。
笑いが止まらなかった。
これでようやく、あの頂に立てる。
ヴィクター。
フレミア。
すべて、僕の前に跪かせてやる。
必ず。
絶対に。
『契約、完了』
黒き騎士は、再び闇へと溶けるように消えた。
だが、僕の中には、確かに奴の力が刻まれている。
誰にも、もう止められない。
誰にも、僕を見下ろさせない。