突然、赤黒く干からびていたはずの魔法陣が、じわりと光を灯し始めた。
重たく鈍い脈動。まるで心臓のように、地下の空気を震わせる。
『そこにいるのは誰だ?』
声は確かに聞こえた。耳ではない、脳髄に直接語りかけてくるような、濁った声。
男とも女ともつかぬ低音。複数の魂が重なり、一つの言葉を発しているような不快さ。
僕は剣の柄に手をかける。リュシアは微笑んだまま、魔力を滲ませる。
「アハっ……これは、残滓じゃないわ。この魔法陣、まだ繋がっているみたいね」
生徒の魂を吸い取った悪魔との契約陣。
それは今も、完全には閉じていない。
不意に、地面がぬるりと濡れた。
魔法陣の中央、焦げついた円の中から、黒い液体のような影が染み出してくる。
『我が名は、ソド=メグル』
名乗りと同時に、空気が一変した。
極端に冷たく、密度の高い魔力が押し寄せる。壁の石が軋み、蝋燭の火が一斉に消えた。
闇の中で、リュシアがにやりと口角を吊り上げる。
「アハっ、魔族じゃないわね。悪魔の名ね。直接聞いたのは久しぶり」
「悪魔だよ!?」
「ええ、そうよ。魔族もいれば、妖精もいる。悪魔だっていてもおかしくはないでしょ?」
リュシアは当たり前のように言うが、そんなものが当たり前に存在しているなど知らなかった。
この世界には、人の世だと思っていた。
『贄は終わった。我が使徒は、七つの門を開いた。八つ目の門……闇の契約に至る者は、次の贄を求めている』
使徒、それは、レオのことか。
七属性は門……なら、あと一つ、レオは闇を欲している?
「……ならば、次に狙われるのは」
「闇属性を持つ者、ね」
リュシアが冷ややかに答える。
思い当たる人物は、いる。エリスだ……いや、それだけではない。
闇を宿す者は、学園内に数名いる。だが、その中で最も強い力を持つのはエリスだ。
警戒しなければならない。
『我が使徒を、傷つけるか?』
再び、脳に直接突き刺すような声が響いた。
僕は迷わず、剣を抜いた。
「契約の監視者ならば、引き裂いてでも止める」
『ほう……では、これは侵入と判断する。人が、悪魔に勝てると思うなよ!』
影が膨れ上がった。
床の魔法陣から影の触手が蠢き、空間を抉るように襲いかかってくる。
「リュシア!」
「アハっ! ご主人様! あなたなら問題ないんじゃない?」
リュシアの言葉を受けて、僕は悪魔に近づいていく。
『愚かな人の子よ。何ができると言うのだ!? 貴様の力も奪ってやろう』
悪魔の力が僕へ向けられる。
だが、悪魔の手が触れる瞬間に剣で弾いた。
『なっ!?』
驚く悪魔の顔は、どこまでも見たことがある顔だった。
「なるほど、そういうことか?」
「アハっ! わかったでしょ。悪魔は魔力の結晶なの。その存在が魔力で出来ていると言ってもいいわ」
『どう言うことだ?! どうして人間の剣が我に通じるのだ!?』
「教えてあげたもいいけど。あなたって契約者と、どんな契約を結んでいるのかしら?」
『ふん、そんなことを語るはずがないだろう』
「そう、残念ね」
リュシアは魔法陣の周りをゆっくりと歩きながら何かをしていた。
「はい。完成!」
『なんだ?! 何をしていた?!』
「あなたってバカな悪魔ね」
『なんだと?!』
リュシアがフードを取ってツノを見せた。
「私は魔族。悪魔のことを理解している。そして、もうあなたは魔界には戻れない」
『何をバカなことを?! うん、なんだこの光は?』
古い魔法陣の周りにリュシアが新たな円を描いて、魔力を流し込んだ。
「アハっ! 本当にバカね。あなたの体をこの世界に固定させたの。逃がさないために。ご主人様、どうぞ」
僕は剣を抜いて、悪魔の腕を切り落とした。
『ぐあぁぁ、痛い!!! なぜだ! 何故、我が痛みを感じる!?』
「アハっ!? ご主人様の魔法属性は無。そして、特異体質として、魔力を無効化するのよ。そして、あなたはそんなご主人様に切られた。つまり、あなたの腕から先は無効化されて消滅したってこと。もしも生きて帰りたいなら、契約の内容を話しなさい」
悪魔に対して、愉悦の表情を見せるリュシア。
どちらが悪なのかなどわからぬが、そんなことはどうでもいい。
ようやく静かになった。
重苦しい沈黙の中、リュシアが深く息を吐く。
『ぐっううう! 我が人間や魔族になど」
「そう……なら、殺すけどいいわね。悪魔は存在が消滅して生き返ることはない。それでいいのね」
『ひっ! わかった。話す』
レオが行った契約内容。
『力を欲した。そして奪うことを望んだ』
悪魔の話では、レオは自分の魂を捧げることで、力を欲した。
そして、他者の魂を捧げることで、奪う力を求めた。
「ご主人様、こいつはどうするの?」
「お前は今のままレオに協力して、人の力を奪うのか?」
『けっ、契約は裏切れない。それをすれば我の存在は消滅する』
なるほど、悪魔にも制約があると言うことか……僕は剣を収め、残された研究書を手に取った。
真実は掴んだ。だが、ここから先は選択だ。
暴くのか、裁くのか。
あるいは……迎え撃つのか。
あとは僕次第ということだ。