特別研究棟の三階、東端。
そこにあるひときわ大きな魔力障壁の奥が、賢者マーベの研究室だ。
魔術演算式の変動干渉。多重属性融合体の魔力流制御。次元演算と術式分離構成。
正直なところ、学園の教員ですら理解しきれないような変態的学問が日々進行している。
「本日から、三人を仮研究協力者として迎え入れます」
白衣の女性、マーベ・レナ=クォーツは、何の感情も浮かべず淡々と告げた。
長く伸びた髪は完璧にボサボサで、瞳は硝子のように冷たい。感情は希薄で、必要な言葉しか発さない。
だが彼女の言葉には、決して逆らえない説得力がある。
それは、知識と天才の圧であり、天才とはどこか変わっている人物のことである。
「……わ、私なんかで、本当にいいのでしょうか?」
エリスが緊張気味に声を上げる。
「大丈夫ですよ。私も専門ではありません」
聖女の素質を持つフレミア。
リュシアに調査を依頼したことで、リュシアが勝手に二人を助手として派遣してきた。
「ですが、嬉しいです。ヴィクター様のお手伝いができて」
「私もです!」
この間まで争っていたように思う二人が、今はなぜか仲良く話をしている。
フレミアは光属性魔法の回復と保護に関しては右に出る者がいない。
エリスも特待生として、魔法ではかなり優秀な人材である。
そのため、今回の賢者マーベの研究室に入るのに全く問題なかった。
「聖式魔法の霊基構造。君が無自覚に使用している魔力の起動式には、興味がある」
「興味があると言われても、よくわかりません……!」
「わかる必要はない。私が観測するだけだ」
賢者マーベの態度は相変わらずだ。
相手のことなど考えないで、自分の意見を告げてくる。
「よろしくお願いします。私、演算術式の基礎はかなり学んでいますので、指導していただければもっと伸びて、ヴィクター様のお役に立てると思うのです!」
エリスはどこか誇らしげだった。
彼女はこの研究棟に来る前から、マーベの論文を暗記するほど読み込んでいた。
同じ魔法を使う者として、マーベのことを尊敬しているという態度を取る。
目の前の本物の賢者を前にして、その背を追いたいという意志が滲んでいる。
「その姿勢は嫌いじゃない。だが、私の研究室では、称賛も成績も意味をなさない。貢献か、沈黙か。それだけだ」
「了解しました。マーベ様!」
マーベの冷たい言葉にもエリスは物怖じしていない。
エリスは胸を張って答える。戦場に立つ前の兵士のような顔だった。
……ただし、この研究室は、ただの学びの場ではない。
マーベがこの時期に他者を招き入れるなど、かつてなかった。
未来では、彼女の研究室に他者が立ち入ることはほとんどない。
僕が、学園を卒業して王家を打倒する際に、協力を仰ぐまで彼女は外のことへ興味を示さなかったほどだ。
今はまだ、変化の兆しが生まれているのか。それとも、これは何かの実験のつもりなのだろうか?
「……マーベ、何を見ている?」
僕は小さく呟いた。
この状況が、運命の変化の始まりなのか。
あるいは彼女も他の者たちと同様に魔族が関与しているのか? 他の者たちとは違うと思っていたが、彼女のことを僕はほとんどわかっていないのかもしれない。
研究棟の窓から漏れる魔力の灯りを見つめながら、僕は静かに気配を消して、彼女たちの観測を始めた。
マーベの机の上には数十冊の魔術理論書と未解読の術式図。その隙間で、聖式魔法の起動陣を浮かべているフレミアが黙々と作業を続ける。
向かいでは、エリスが演算式の補助記述を試みており、時折、魔導式に手を添えては、マーベに小さくうなずきをもらっていた。
この部屋には、無駄な言葉がない。
そして、それが最初から決められていた秩序のように、完成していた。
「起動式、再補正完了。共鳴値、3.02から3.18へ上昇。次は、属性層の再分離に入ります」
「いいわ。そのまま続けて。次の段階では、聖属性の下に眠る副属性の揺らぎに注視して」
マーベの声は、いつもと変わらず淡々としていた。
しかし、その目は、間違いなく二人の成長に反応していた。
……不思議なことだ。
マーベは他者に干渉しない人間だった。
他人を指導しようともしないし、ましてや一緒に研究するなど過去の彼女にはなかった。なのに今は、エリスやフレミアの言葉に頷き、指示を与えている。
その変化が、真意なのか。それとも実験の一環なのか……俺にはまだ判断がつかない。
「ヴィクター様」
静寂の中、フレミアがふとこちらを振り返った。
机の上に聖紋陣を広げたまま、笑みを浮かべて言う。
「マーベ様は、とても優しい方なんですね」
「優しい?」
「はい。指導も的確で、失敗しても怒らず、何度でも見せてくれるんです」
エリスも頷いた。
「初めは怖い方かと思っていたのですが、理屈が通っていればちゃんと受け入れてくれる人です。感情を挟まないからこそ、分かりやすいとも言えます」
……なるほどな。
彼女たちから見れば、マーベは導いてくれる存在として映っているのか。
俺が知っているマーベは、もっと遠くにいた。
言葉は少なく、すべてを見通しながら、興味がないことには徹底的に無関心だった。
今の彼女は、確かにほんの少し、変わっている。
エリスが魔術陣の再構築に失敗して、机の上に小さな爆発を起こした。
「わっ……! ごめんなさい!」
「焦らないでいい。演算式の分母が切り捨てられてた。再計算して」
マーベは淡々と告げただけだった。
怒るでもなく、嫌味もなく、ただ事実として間違いを伝える。
「……ありがとうございます!」
エリスが笑った。
フレミアが無意識に聖式結界を発動させた時、マーベは急に立ち上がり、目を見開いてその陣を凝視した。
そして、呟く。
「やはり君は、二重霊基か」
「に、にじゅう……?」
「その意味は、今すぐに分かる必要はない。だが、君の聖女の力は、通常のものとは別系統に分類される可能性がある」
「…………え?」
フレミアは困惑していた。
だがマーベは、それ以上何も言わなかった。
それが、余計に不気味だった。
何かを観察している。
そんな視線を、彼女はずっと、俺たちに向けている。
人を素材として見ているような、透明な瞳。
だが、彼女の言葉に悪意はない。ただ、真実だけを語る。
「……あの人は、嘘をつかないですね」
フレミアの言葉に頷いて、そう信じたいと、今は思っている。
研究室での日々は静かに過ぎていく。
けれど、その静けさの中に、何かが確実に蠢いていた。
それが裏切りの兆しなのか、救いの芽なのか。
僕は、ただ黙って見つめ続ける。