その日、研究棟の空気は、少しだけ違っていた。
エリスが演算盤を磨き、フレミアが聖紋陣の記録紙を揃えている中、マーベはただ一言、そう口にした。
「ヴィクター・アースレイン。入って」
その声には、命令でも要請でもない。
ただ、事実を告げるだけの響きがあった。
二人が研究の助手的な存在で採用された中で、僕だけは別の目的で研究室の入室を許されていた。
普段は、二人の様子を見て、本を読んで過ごしている。
だが、マーベに呼ばれれば、窓際の席からゆっくりと立ち上がる。
「……僕に、用か?」
「ある。あなたの魔法は興味深い。他の人には存在しない無効化能力がある。理論上は成立し得ない、魔力の受容と拒絶の二重構造。私の研究課題として、極めて重要な存在」
研究課題つまりは、研究対象というわけだ。
これは未来でも同じだった。
アリシアに支持されて、戦いをしている際に、僕が魔法を無効化したのを見て、マーベの方から声をかけてきたのが最初の出会いだった。
今回は、僕の方から彼女に接近をしたが、僕らの運命はどこかで繋がっているように思えた。
「何をするんだ?」
「研究」
あくまで、淡々としている。だが、彼女の背後の記録盤には、既に僕の名前が記されていた。
事前に測定していたということか? いつから……僕の魔力構造を読み取っていた? もしかしたら、こちらから声をかける前から僕のことを見ていたのか?
「……勝手に測定していたのか?」
「当然。あなたの動向は、すべて視認していた。私の研究を邪魔できる者はいない」
視線が鋭くなる。
僕が近づいてくることを見抜いていたのか? マーベだけは何を見て、何を考えているのか全く理解できない。
「君にとって僕は何だ?」
「面白いもの」
それが、マーベの答えだった。
ただ、ガラス玉のような冷たい瞳ではなく、僕に興味を持って、キラキラとした瞳を向けているのも事実だ。
善悪ではない。信頼でも敵意でもない。
ただ研究対象として、面白いかどうか? それが彼女のすべての行動原理。
僕はゆっくりと、研究台の前に歩み寄る。
「……一つ、確認したいことがある」
「何?」
マーベはわずかに眉を動かす。
「マーベは時間逆行や、時間移動について、知っているか?」
難しい話をするつもりはない。
僕が経験した事象をマーベが説明できるなら、彼女が僕が過去に戻った何かを知っている恐れがあると思っている。
これは彼女にとっても興味深い問いだったのだろう。
「予知? それとも時間魔法?」
「わからない。そういうものが存在するのか? それが知りたい」
「存在する。魔力の因果を流れとして計算することはできる。その因果を逆行できるようにさせれば理論上は可能。それにあなたの魔力には、明確な時間差のズレが私には見える。言い換えれば、時間の跳躍の痕跡。ただ、無効化しただけじゃない。何かがあるのが私の興味をそそる」
マーベの言葉は、未来では聞いたことがない言葉だった。
つまり、マーベには僕がこの時間ではないどこからかきた痕跡が見えているということになる。
「そうなのか?」
「あなたは、戻ってきた者? それともやってきた者?」
マーベの瞳は俺の何かを見通そうとしている。
「それを知りたい」
「そう、なら研究の対象になればいい」
マーベの目が、まっすぐ僕を射抜く。
それは“後悔”ではない。
彼女の眼差しにあるのは、純粋な知的欲求。
問いに答えるのではなく、調べる。それが彼女のやり方だ。
「……もしも、僕が断罪される未来を知っていたとして、あなたが助けられたのに、助けなかったとしたら?」
「興味がなくなったからだと思う」
「えっ?」
「私はあなたに興味がなくなった。だから、助ける必要もない」
マーベらしい言葉に、それが真実に思えた。
だが、彼女なら魔族の存在や悪魔にも興味を持ちそうだ……。
「……そうか」
「だけど、あなたが私の興味を失わないようにしてくれれば、私は観察をやめない。私はあなたを解析し、あなたは私を見張ればいい。研究対象と観測者。その関係ならば、互いに利益がある」
「お前らしい……提案だな」
「合理的」
マーベと話す機会を持つことができた僕は、研究対象として研究室に参加する。
エリスとフレミアが、戸惑い気味にこちらを見ている。
だが、僕は首を縦に振った。
「……いいだろう。解析してみるがいい。ただし、僕の無効化が君の術式をすべて崩すかもしれないぞ」
「それを確かめるための実験。壊れても、また組めばいい。私は壊れるものが好き」
ああ、やはりこの人は変わっていない。
冷たい知性と、歪んだ執着。その奥にある、底なしの探究心。
この研究室は、ある意味で戦場だ。
剣ではなく、知識と観測の応酬。僕は改めて、マーベの前に立ち、魔力の封を解いた。
「始めるぞ。僕の無を、全て解析してみせろ」
「望むところ。さあ、楽しいデータを見せて」
僕はマーベとの、相互観測を始めた。
かつて、断罪の時に何も言わなかった彼女が、今は目の前で僕に手を伸ばしている。
その手が、過去の傷を繋ぐものになるのか、それとも新たな裏切りへの前兆なのか、それはまだ分からない。
けれど今はただ、この奇妙な研究室の静寂の中に、確かな因果が編まれていく音だけが響いていた。