月の光が、研究棟の外壁に影を落としていた。
僕はその裏手、人気のない中庭の縁に腰を下ろし、剣の柄を膝の上で弄びながら思考を巡らせていた。
マーベは今も研究をしているのかもしれない。
フレミアとエリスはすでに帰宅しているだろう。
ここは、学園の中でも人が寄りつかない場所なので、僕としては夜になると剣を振るうことができて楽しい場所だ。
断罪という記憶の断面を再び見たせいで、脳裏に焼きついた映像がまだ離れない。
「僕の記憶を見たのか?」
「いえ、私たちは見えていません」
「はい。でも、ヴィクター様が苦しんでおられたので」
フレミアやエリスには見られてはいない。
マーベはじっと僕の顔を見ていた。
「あなたは何を見たの?」
「……古い記憶だ」
「そう、まだ実験は終われない」
「ああ、わかっている」
三人との会話を思い出しながら僕は自分の断罪される最後のピースを探す必要を感じていた。
ひそやかに気配が近づいてくる。
現れたのは、リュシアだった。静かな足音。黒い外套。いつものふざけた笑顔ではなく、報告者としての顔をしていた。
「アハっ、こんなところにいたのね。ご主人様」
「遅かったな」
「だって、マーベの研究室って思ったより厄介だったのよ。無遠慮に解放されているかと思えば、意味不明な機材がたくさん置かれていたり、変な薬品がゴロゴロ転がっているのよ」
リュシアは僕の隣に腰を下ろし、月明かりを見上げるように息をついた。
「で? どうだった?」
「もう労いの言葉もかけてくれないのね。まぁ、それがご主人様だけど。結論から言うと、マーベの周囲には、魔族・悪魔・妖精の類いの干渉は今のところまったく感じなかったわ。むしろ、私魔族にとっても寄り付きにくい相手ね」
「寄り付きにくい?」
「ええ、高い魔力に研究者としての態度。こちらが餌にしようとして、餌にされそうな雰囲気があるのよね。これだから高位魔法使いは厄介なのよ」
なるほど、マーベ自身の存在が、魔族を遠ざけていると言うわけか……。
僕は静かに目を閉じた。
「今後は彼女から接近する可能性があると言うことか」
「ええ。それはあるかもね。研究のためならってね。ただし、これは断言できるわ。彼女は、いたらすぐに分解して観察してるわね。私たち魔族は不死に近いけれど、それを殺す方法をご主人様とは違う方法で編み出しそうよ」
その言葉に、口元がわずかに緩む。
「つまり、魔族を恐れるでもなく、受け入れるでもなく、研究対象として扱う」
「アハっ、そう。彼女にとって、価値のあるものは真理だけ。倫理とか感情とか、あの人にとっては興味の外って感じね。私も苦手」
マーベの沈黙は、沈黙による同情や怠慢じゃない。
ただ、興味がなかった。それだけだ。
あの日、未来で僕が断罪されたときも、きっとそうだったのだろう。
ヴィクター・アースレインという存在に興味を失ったから、助けなかった。
では、それまでは興味があったのだろうか? どこで興味を失った?
「ご主人様、怖い?」
「いいや、むしろ安心したよ。もし彼女に悪意があったら、それはもっと危険だった」
「でも、もしも彼女の興味が、悪魔や魔族の方に向いたら?」
リュシアが横目で僕を見る。
僕は答えた。
「その時は僕を切り捨てるだろうな」
「……アハっ! それでいいと思っているのね」
あくまでどうして裏切ったのか、真実を知りたいだけだ。
あの時は思いつくことすらできなかった。
だけど、こうやって一人一人に会うことで、彼らの本質を知って自分は断罪されるに至ったのだと理解できる。
「僕の無効化も、未来の知識も、彼女の研究にとって興味を引かないと判断されたら、その時点で終わりだ。彼女にとって、人間関係は数式と同じだ。不要な変数なら排除する。興味が湧けば、切り刻んででも知ろうとする」
だが、そんなマーベだから信用ができるとも言える。
「アハっ、ご主人様、そういう言い方すると、少しだけ嬉しそうに聞こえるわよ?」
「僕に感情はない。見立てが正しかっただけだ。マーベは、最初から一度も僕の味方じゃなかったってことが、これではっきりしたからな」
リュシアは「アハっ!」と鼻を鳴らして、石の上に座って足を組む。
「じゃあ、ご主人様はどうするの? マーベのこと敵と見る?」
「いいや、最初から誰かに復讐など考えていない。絶望を知ったからこそ、その絶望を与えられた原因を探していただけだ。今もマーベは監視対象で、彼女が何を観測し、何に興味を持ち、どの瞬間に心を動かすか、それを見極めるだけだ」
マーベの感情はないかもしれない。
だけど、様々な物を無効化できる僕の体を動かせなようにした毒。
あれを作れたのはマーベではないかと思っている。
だからこそ、どうして作ったのか? それも実験だったのか? それを知りたい。
夜風が吹き抜けた。
木々の枝が揺れ、影が地面を流れるように走っていく。
「リュシア。……お前が僕のそばにいることだけは、変わらないのか?」
「アハっ、そんな当たり前のことを聞かないでよ、ご主人様。だって私は、あなたの契約者なんだから」
「……そうか、服従していたな」
「そうよ。それとも私の体を好きにしたくなった?」
リュシアが月明かりの下で妖艶な笑みを浮かべる。
ローブを捲って、怪しい瞳が僕を見る。
この女の底は知れないが、少なくともマーベのように感情を持たない理性とは違う。
「そういうのはいい。ジェイを探してこい。ドイルを使ってもいい」
「ジェイ?」
「ああ、僕の軍師をしていた男だ。傭兵隊に在籍しているはずだ」
「アハっ! 了解。学園も残りわずかね。ご主人様の成績は主席をキープしていて、アースレイン家の当主様との約束も果たせそうね」
「ああ、真実を説き明かした後に。僕はもう一つの真実を探すつもりだ」
リュシアは立ち上がり、夜の中へと再び姿を消す。
僕はその背を見送る。