瘴気の泉、そこは森の中心部にぽっかりと口を開けるように存在していた。
木々は朽ち、地面は黒く爛れ、空気は重く、喉の奥を焼くような苦味が漂っていた。森の命が、ここを中心に腐っていっているのがわかる。
魔喰獣。今回の討伐作戦における主目標の個体が、泉の周囲を徘徊していた。
全長四メートルを超える四足の巨獣。背には瘴気を吸い上げる触手状の器官が揺れており、足元には死した魔物や人の骸が累々と転がっていた。
森を死に向かわせる存在が徘徊して、魔力に毒を含んで、大地や周囲を腐らせていた。
腐敗臭とヌカるんだ地面によって異常な光景が、広がっている。
「……あれが、瘴気の中核か」
僕の横で、リュシアが頷く。
「アハっ、間違いないわ。あれが瘴気を媒介して、森全体に魔力を伝播させている。ここを断たない限り、この森はずっと腐ったまま獣魔の増殖をやめないでしょうね」
「傭兵部隊、展開! 戦列広げて! 弓隊、魔法隊、後方に!」
ジェイの号令が飛ぶ。既にジェイの指示で森の南北両面に布陣が完了しており、今は決戦布陣と呼ばれる殲滅陣が構築されていた。
いつの間にか、僕らが雇った以上の傭兵たちが力を貸してくれていた。
これもジェイの作戦が成功して、安全に獣魔を狩ることができると判断されたからのだろう。
僕は前だけを見つめて突き進めば、道は開かれていく。
「大将、あんたなら魔喰獣を倒せるか?」
「愚問だ」
「なら、任せた。瘴気に慣れてない者たちは決して近づくな! うちの大将が大物を狩るぞ!」」
「僕が行く」
剣を握る手に力が入る。《冥哭》が瘴気を裂くように輝いた。
「魔力を喰らえ、魔剣『冥哭』」
僕の耐性は、瘴気の影響を受けない。さらに、周囲に渦巻く濃厚な魔力を《冥哭》を喰らう。
魔喰獣がこちらを察知し、咆哮と共に突撃してくる。
地面が割れ、毒の泥が跳ね上がる。
……だが、それすらもすべて僕の力は拒絶する。
「五段階に上がったことで、得られた新たな力だ。
瘴気を纏った突進を、そのまま受け止めた。
押し返す。魔喰獣が後退する。あれだけの巨体であり、魔力を十分に含んだ存在すらも、その力を無行にして、対等な相手として戦うことができる。
さらに、魔剣から僕へ力が流れ込んで、こちらは強化が行える。
「キシャー!!」
空から瘴気の翼をもつ飛行種が突撃してくる。
どうやら魔喰獣に指示をされたようだが、今は邪魔だ。
「リュシア!」
「アハっ! 任せて、ご主人様!」
彼女の爪が空を裂き、翼を貫いた。僕は魔剣を携えて、魔喰獣がよろけたところを、僕の刃がその心臓を貫いた。
瘴気の噴出が止まる。地面の腐食が止まり、泉の周囲から流れ出していた黒い蒸気が晴れていく。
周囲の獣魔もドイルとジェイの指示を受けた傭兵たちが蹴散らしていく。
……だが。
「泉が……」
ドイルの声に、僕は振り返る。
瘴気が消えた泉の中心部。その奥底から、まるで光の泡のようなものが浮かび上がってきていた。
静かに、穏やかに、澄んだ輝きが天に昇っていく。
「これは……」
水面に映るのは、朽ちた神殿の輪郭だった。
朽ちた柱。苔に覆われた石畳。崩れかけた聖堂の扉。
ジェイが、呆然とした声を漏らす。
「……間違いねぇ。十年前、俺が見た場所だ」
僕たちは足を進めた。
瘴気が晴れ、精霊の祠と呼ばれた場所が姿を現す。
かつてこの森を聖域として浄化していた精霊という存在。
今や忘れられた、森の守護者がいる場所。
「行こう」
「大将、ちょっと待ってくれ」
「なんだ?」
「いいから。みんな周囲の魔物解体を頼む。血抜きを忘れるなよ。運搬員は商人たちのところに運んでくれ」
ジェイがテキパキと指示を出して、戻ってきた。
「俺もいく」
「……わかった。ドイル。この場の指揮を頼む」
「ヴィクター様! しかし」
「僕が死ぬと思うか?」
「いえ、ヴィクター様なら」
「なら、副官のお前に任せる」
「私がヴィクター様の副官!?」
ドイルは感動したように、敬礼をしていた。
「不肖、ドイル。ヴィクター様の副官として務めさせていただきます」
「ああ、頼んだ」
精霊の祠へ続く道を、僕、ジェイ、リュシアの三人で入っていく。
それほど大きなものではなく、中心に辿り着けば、古びた祭壇があった。
人の背丈ほどの石柱に、丸い結晶体のようなものが嵌め込まれていた。
そして声が、響いた。
『ようやく、来てくれたのですね』
それは、確かに声だった。
誰の口からでもなく、頭の内に静かに響く囁き。
優しく、どこか懐かしい。
光が結晶体から溢れ出し、空中に一人の姿を結ぶ。
人のようで、人でなく。
髪は透き通る銀。衣は風のように揺れて、輪郭は常に淡く揺れている。
だが、目だけは、確かに見えた。
「……お前が」
「ジェイ」
声は、彼の名を呼んだ。
感情が宿っていた。
『ずっと、あなたを待っていました』
その言葉に、ジェイが膝をついた。
戦士としてでも、軍師としてでもなく、ただ一人の人間として。
「……俺は、お前を助けに来た」
『ありがとう』
その言葉に、風が吹いた。
森の空気が変わった。
腐った木々の枝が揺れ、朽ちた神殿の空に、光が差し込んだ。
これが、精霊の祠。そして、ここが、精霊が今も願いを託す場所。
僕とジェイは、その光の中に立っていた。
すべての始まりに、ようやく辿り着いた。