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第91話

 現れた光は、あまりにも穏やかだった。


 僕は、リュシアから精霊の存在を伝えられていたから驚きはしない。


 だけど、警戒を解くことはできない。


 剣を振るっていた時の高揚や緊張とはまったく別の、沈黙の海のような静けさが、この祠には満ちていた。


 祠の中心で浮かぶように佇むその姿、精霊。


 言葉では説明できないが、彼女は間違いなく人間ではない。


 人の形をしていながら、それ以上に澄んでいて、どこか懐かしくもあり、痛ましいほど透明だった。その彼女が、静かに目を伏せて、言葉を紡いだ。


『この森は、かつて、魔物とあなたたち人の罪によって壊れました。けれど、同じように人の願いによって、再び救われると信じていました』


 ……願い。その言葉が、やけに重く胸にのしかかった。人の罪で壊れた。 そして誰が、何を願ったというのか。富か、力か、それとも、安寧か。


 僕は一歩、祠の中心へと足を進めた。


「……精霊。君は何者だ? なぜ、この森を……ジェイを見ていた?」


 僕の問いに、彼女はわずかに視線を上げた。色のない瞳が、僕の奥底を覗き込んでくるような雰囲気を持っている。


『私は、この森がまだ祈り残していた頃に生まれた存在です』


 それは、はるか昔のことらしい。かつて森は、王国とは異なる小さな信仰共同体によって守られていたという。


 精霊の祠は、神でも悪魔でもない、森の意志を象徴とした場所だった。


『森を守っている者たちは、願いました。外敵を退ける力を。魔物から子どもを守る力を。この森が、誰にも侵されないようにと、そして力の使い方を間違える罪を犯した』


 その願いが、瘴気を呼んだ。人の恐れと執着が、森の精霊の力と共鳴し、閉ざされた拒絶の結界を形作った。だが、隠されたものほど人は欲しがる。


 争いの火種が生まれてしまったという。やがて、それは魔物を呼び込み、森を蝕む毒へと変貌した。


『力を望んだのです。誰かを排除する力。そうして、森の祈りは誰かの敵意に飲まれていきました』


 ……その末に、今の腐敗が生まれたというわけか。


 その中心にいた彼女は、森と共に沈み、ただ一人、助けを求め続けていた。


「だから……あの時、ジェイに力を?」


『はい。彼の中には、ただ生きたいという、まっすぐで純粋な願いがありました。だから、託しました。私の残された願いを兼ねる力を』


 戦うための剣ではなく、生きるための知恵。精霊は、命を繋ぐ者としてジェイに賭けたのだ。


「……代償は?」


『ありません。私は、願ったことを与えただけ。けれど、願いを叶えた者がどう生きるかは……私には決められません』


 ジェイが静かに言う。


「……俺は、ただ……お前の声を、思い出すたびに放っておけなかった。それだけだ」


 彼の声には嘘がなかった。戦術の天才と呼ばれる軍師が、十年前の声を胸にここまで歩いてきた。


『ありがとう、ジェイ。……そして、ヴィクター・アースレイン』


 僕の名が呼ばれた。


 不思議だった。彼女は、僕を見て、微笑んだように見えた。


 そして、僕と彼女だけの空間が生まれる。


『あなたは……時の淀みに触れた人。未来を知り、過去を探る人。そして、あなたにだけ真実を見せましょう』


 それは俺が歩んだ未来でジェイが見たであろう過去。


 未来のジェイはすでに悪友のジェイとして完成していて、今のような純粋な願いを持つ男ではなかった。


 だが、その理由は、この大規模魔物討伐作戦で、精霊の祠を守ろうとして同じように戦いをして……


 精霊を助けることはできず、泉の魔物も精霊の祠も下級貴族の利権や、王家の命令で何一つ触れることができず。ジェイは精霊を救うことができなかった。


 悲しみと抱えるジェイは、僕と出会って王家打倒を実現させた。


「これが真実?」


『はい……あの子は、今と過去では違う道を辿りました。そして、あなたに問います』


 空気が変わる。二人の空間から、ジェイとリュシアがいる空間に戻った。


 柔らかな空間に、一つの選択が提示される。


『今、森は浄化されつつあります。ですが』


 精霊の身体が、淡く揺れた。


『このまま祠を閉じれば、森は眠りにつきます。同時に魔物はいなくなり、人々の争いの種はなくなるでしょう。それは祈りの終焉を意味します』


 祈りの終焉、それは精霊を殺すことになる。


『あるいは精霊の祠を再び開くなら、人々の願いと共に、森はまた目を覚ますでしょう。ただし、それは新たな戦いを呼ぶかもしれません』


 聖なる森の復活。だが、それはまた争いの芽を産むことになる。


 静かだった声に、微かな熱が宿っていた。


『選ぶのは、あなたたちです。祠を閉じ、争いを止めるのか? 祠を残し、未来の火を灯すか』


 選択。それは、ジェイの過去と、僕の未来に関わる決断だった。


 森を救うということは、誰かの希望になると同時に、誰かの欲望を再び呼ぶことでもある。


 そのリスクを、背負えるのか。


 僕は、ジェイと目を合わせた。彼は、ただ一言だけ呟いた。


「……お前が決めろ、大将。あんたがいなければここに来ることはできなかった」


 僕は、一瞬、目を閉じてゆっくりと、口を開いた。


 それは未来を変える決断。


「……なら選ぶ。俺たちは祠を残す。聖域の復活を。守護者はジェイに命じる」

「なっ!」


 森はまだ希望を持てる。


 ジェイがそうだったように。誰かが、再び祈るなら。


『……わかりました。願いは叶いました。新たな精霊の主ジェイ。あなたを主人と認めましょう。そして、森の権利をジェイに』


 精霊の瞳に、わずかに涙のような光が浮かんだ気がした。


 次の瞬間、祠に風が吹き込む。


 新しい季節の香りが、どこかから運ばれてきた気がした。


 これは、まだ誰も知らない新しい森の始まり。

 そして、誰かの願いを、もう一度叶える物語の続き。


 ジェイの過去と、僕の未来が、ようやく同じ場所で交差した瞬間だった。



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