現れた光は、あまりにも穏やかだった。
僕は、リュシアから精霊の存在を伝えられていたから驚きはしない。
だけど、警戒を解くことはできない。
剣を振るっていた時の高揚や緊張とはまったく別の、沈黙の海のような静けさが、この祠には満ちていた。
祠の中心で浮かぶように佇むその姿、精霊。
言葉では説明できないが、彼女は間違いなく人間ではない。
人の形をしていながら、それ以上に澄んでいて、どこか懐かしくもあり、痛ましいほど透明だった。その彼女が、静かに目を伏せて、言葉を紡いだ。
『この森は、かつて、魔物とあなたたち人の罪によって壊れました。けれど、同じように人の願いによって、再び救われると信じていました』
……願い。その言葉が、やけに重く胸にのしかかった。人の罪で壊れた。 そして誰が、何を願ったというのか。富か、力か、それとも、安寧か。
僕は一歩、祠の中心へと足を進めた。
「……精霊。君は何者だ? なぜ、この森を……ジェイを見ていた?」
僕の問いに、彼女はわずかに視線を上げた。色のない瞳が、僕の奥底を覗き込んでくるような雰囲気を持っている。
『私は、この森がまだ祈り残していた頃に生まれた存在です』
それは、はるか昔のことらしい。かつて森は、王国とは異なる小さな信仰共同体によって守られていたという。
精霊の祠は、神でも悪魔でもない、森の意志を象徴とした場所だった。
『森を守っている者たちは、願いました。外敵を退ける力を。魔物から子どもを守る力を。この森が、誰にも侵されないようにと、そして力の使い方を間違える罪を犯した』
その願いが、瘴気を呼んだ。人の恐れと執着が、森の精霊の力と共鳴し、閉ざされた拒絶の結界を形作った。だが、隠されたものほど人は欲しがる。
争いの火種が生まれてしまったという。やがて、それは魔物を呼び込み、森を蝕む毒へと変貌した。
『力を望んだのです。誰かを排除する力。そうして、森の祈りは誰かの敵意に飲まれていきました』
……その末に、今の腐敗が生まれたというわけか。
その中心にいた彼女は、森と共に沈み、ただ一人、助けを求め続けていた。
「だから……あの時、ジェイに力を?」
『はい。彼の中には、ただ生きたいという、まっすぐで純粋な願いがありました。だから、託しました。私の残された願いを兼ねる力を』
戦うための剣ではなく、生きるための知恵。精霊は、命を繋ぐ者としてジェイに賭けたのだ。
「……代償は?」
『ありません。私は、願ったことを与えただけ。けれど、願いを叶えた者がどう生きるかは……私には決められません』
ジェイが静かに言う。
「……俺は、ただ……お前の声を、思い出すたびに放っておけなかった。それだけだ」
彼の声には嘘がなかった。戦術の天才と呼ばれる軍師が、十年前の声を胸にここまで歩いてきた。
『ありがとう、ジェイ。……そして、ヴィクター・アースレイン』
僕の名が呼ばれた。
不思議だった。彼女は、僕を見て、微笑んだように見えた。
そして、僕と彼女だけの空間が生まれる。
『あなたは……時の淀みに触れた人。未来を知り、過去を探る人。そして、あなたにだけ真実を見せましょう』
それは俺が歩んだ未来でジェイが見たであろう過去。
未来のジェイはすでに悪友のジェイとして完成していて、今のような純粋な願いを持つ男ではなかった。
だが、その理由は、この大規模魔物討伐作戦で、精霊の祠を守ろうとして同じように戦いをして……
精霊を助けることはできず、泉の魔物も精霊の祠も下級貴族の利権や、王家の命令で何一つ触れることができず。ジェイは精霊を救うことができなかった。
悲しみと抱えるジェイは、僕と出会って王家打倒を実現させた。
「これが真実?」
『はい……あの子は、今と過去では違う道を辿りました。そして、あなたに問います』
空気が変わる。二人の空間から、ジェイとリュシアがいる空間に戻った。
柔らかな空間に、一つの選択が提示される。
『今、森は浄化されつつあります。ですが』
精霊の身体が、淡く揺れた。
『このまま祠を閉じれば、森は眠りにつきます。同時に魔物はいなくなり、人々の争いの種はなくなるでしょう。それは祈りの終焉を意味します』
祈りの終焉、それは精霊を殺すことになる。
『あるいは精霊の祠を再び開くなら、人々の願いと共に、森はまた目を覚ますでしょう。ただし、それは新たな戦いを呼ぶかもしれません』
聖なる森の復活。だが、それはまた争いの芽を産むことになる。
静かだった声に、微かな熱が宿っていた。
『選ぶのは、あなたたちです。祠を閉じ、争いを止めるのか? 祠を残し、未来の火を灯すか』
選択。それは、ジェイの過去と、僕の未来に関わる決断だった。
森を救うということは、誰かの希望になると同時に、誰かの欲望を再び呼ぶことでもある。
そのリスクを、背負えるのか。
僕は、ジェイと目を合わせた。彼は、ただ一言だけ呟いた。
「……お前が決めろ、大将。あんたがいなければここに来ることはできなかった」
僕は、一瞬、目を閉じてゆっくりと、口を開いた。
それは未来を変える決断。
「……なら選ぶ。俺たちは祠を残す。聖域の復活を。守護者はジェイに命じる」
「なっ!」
森はまだ希望を持てる。
ジェイがそうだったように。誰かが、再び祈るなら。
『……わかりました。願いは叶いました。新たな精霊の主ジェイ。あなたを主人と認めましょう。そして、森の権利をジェイに』
精霊の瞳に、わずかに涙のような光が浮かんだ気がした。
次の瞬間、祠に風が吹き込む。
新しい季節の香りが、どこかから運ばれてきた気がした。
これは、まだ誰も知らない新しい森の始まり。
そして、誰かの願いを、もう一度叶える物語の続き。
ジェイの過去と、僕の未来が、ようやく同じ場所で交差した瞬間だった。