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第92話

《side:リュシア》


 ご主人様と、ジェイの願いによって、精霊が力を取り戻したことで、溢れていた魔物たちは力を失って姿を消してしまった。


 焚き火の香り、焼かれた肉の匂い、人間たちの勝利に沸く笑い声。

 それらすべてを後ろに置いて、私は森へ戻った。


 戦のあとの森は静かで、あれほど濃かった瘴気は薄れ、木々はまだ戸惑いながらも息を吹き返しつつある。


 まだ動物たちの鳴き声が戻るほどではないけど、確実に生命の息吹が戻ってきた。


 そして、あの祠の中心に、彼女はいた。


「……アハっ! お邪魔するわね、精霊さん」


 光の揺らめきの中、森の精霊はふわりと顔を上げた。もう、ジェイの前に現れたときのような慈しみの仮面はつけていない。


『あなたは魔族ね。なのに、この森に残れたのですね』


「今の私はご主人様と契約をしているから、あなたの力を無効化できるの。それにどうしても聞きたいことがあったの」


 私は、笑わなかった。このときばかりは、仮面も爪も要らない。ただ、私という魔族の存在が、彼女と向き合いたかった。


「ジェイの未来の話、あなたは知ってたのよね?」


『……はい。彼が選ばなければ、また同じ過ちを繰り返したでしょう。今度こそ……願いが届いてよかった』


「ふうん、だったら教えて。どうして彼がご主人様を裏切ることにしたのか……どうしてそれが必要だったの?」


 精霊は微かに目を伏せた。


『……ジェイは、未来でヴィクターを守るために裏切りました』


 その言葉に、私は沈黙する。


『王国を潰すため、ヴィクターを利用した。ですが、いつしかジェイは友だと

ヴィクターを認めていた』


「……なら、どうして?」


『ヴィクターの力は脅威だった。そして世界を救った英雄の力として、あまりにも圧倒的すぎたのです。王国という一つの集合体ではなく、ヴィクターという個人。それが悪であると断罪することで、他国への脅威を下げることができた。そして、もう一つ。ある人物が囁いたのです』


「ある人物?」


『はい、賢者マーベ。彼女がヴィクターを救う方法をジェイに伝えました』


「救う方法を伝えた。だけど、ジェイはヴィクターを裏切る計画を立てた首謀者だって、ご主人様は言っていたわ……壊したのは、ジェイよ」


『あの子の心を全て見通せるわけではありません。ですが、ヴィクターを過去に戻す算段があり、彼に恨まれてでもその作戦をジェイが実行する決意をしたならあり得るかも知れません』


 精霊の気配がわずかに揺れる。たぶん、人間なら気づかない。


『私は……何も望んでいない。ただ、祈りがあっただけ』


「嘘」


 私ははっきりと言った。


「あなたは、意思を持ってる。感情も、執着も。だからジェイを選び、ヴィクターを見つめてた。そして今、答え合わせがしたくて私が来た」


 私は歩を進めて、祠の中心に立った。


「ねえ、精霊。あんた、最初から裏切りの意味を知ってたんでしょう?」


『……はい。私はジェイに力を与えましたが、感情も託しました。あの子は、強すぎる理性の裏に、柔らかな情を秘めていた。だからこそ、未来でヴィクターを見つめジェイは過去に彼を送り、私を助けた』


「だったら、最初からそう言えばよかったのに」


 私は肩をすくめた。


「あなたの思惑通り……未来の彼と道が変わってしまった。ヴィクターがジェイの真実を追い求め、強くなり、こうして共にあなたを救う戦いを行ったのだから」


『残念ながら、私には時間に干渉する力はありません。だから私も願っただけです』


「願った?」


『願いの形を、正しく選ばせるために。ヴィクターと共にここに至るように。だから、私は未来を彼らから切り離した。世界に残した、たった一つのやり直しとして、ジェイの賢さが今の未来を導き出したのでしょう』


「……なるほどね」


 私は、微笑んだ。今度は、ちゃんと。


「ご主人様はまだ気づいていないけど……それでも、ジェイの力は未来を変える。そういう特異点だったわけね」


『……ええ』


「最後に、答えて。あんたの祈りは、本当に人のためなの?」


 その問いに、精霊はしばしの沈黙のあと、こう返した。


『……いいえ。私は、私を救ってくれた子たちのために祈っていた』


 それは、代償としてすでに彼女を救うことを前提にされていた。


 そして昔の人たちが力の使い方を間違えたのも、もしかしたら精霊の導きなのかも知れない。


「……結構、利己的じゃない。気に入ったわ」


 私の言葉に、精霊はふっと目を伏せたまま笑った。


 静かな風が、森を通り抜ける。もう瘴気はない。ただ、若葉の香りと、風に乗る再生の音が広がっていくだけ。


「ヴィクターには……黙っておくわ。いつか自分で答えに辿り着くでしょ」


『ありがとう、リュシア』


 私は背を向け、祠を後にした。


 夜明けの光が森を照らし始める。ジェイの過去も、ヴィクターの未来も、ここから本当に変わり始める。


 そして私は、変わる彼らを見届ける、魔族の契約者としてそばに在り続けるだけ。


 それでもご主人様の心は絶望に落ちたまま、表面的な笑顔も、感情の動きも、見られるようになった。


 だけど、心の底にある絶望は何一つ変わっていない。



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