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第94話

《side:ヴィクター》


 門をくぐった瞬間、胸の奥に積もっていた埃のようなものが、ふっと払い落とされる気がした。


 馬車を降り、久しぶりの石畳を歩く。制服姿の生徒たちが行き交い、鐘の音が授業の終わりを知らせている。平和でありいつもの風景が広がっていた。けれど、どこか懐かしさを帯びているのは、僕があの森で時を過ごしてきたからだろう。


 非日常とも言える。戦場過ごしている時間は特別であり、過ぎ去る時間が早く感じられた。


「ヴィクター様!」


 階段を駆け下りてきた少女が僕の名前を呼ぶ。風のように駆けるその姿は、かつての儚げな印象とは違っていた。足取りは迷いなく、目には力がある。


「エリス……」

「帰ってこられたのですね……!」


 彼女は息を弾ませながらも、僕の前で停止する。マジマジと顔を見つめる距離が近い。今にも抱きついてきそうだ。


「ああ、今帰った」

「おかえりなさいませ。心配しました。戦場に行かれていると聞いて。私も! 私もお供したかったです!」


 少し恨めしそうに見つめるエリスだが、それでも心から心配してくれているのが分かってしまう。


 すぐ後ろから、落ち着いた足音が近づいてくる。


「やっと帰られたのですね……」


 フレミアは以前よりも柔らかな雰囲気を纏って笑っていた。僕がいない間に、マーベやエリスとの交流で彼女にも変化があったようだ。


 口元を緩めるだけで、あたたかさが伝わってくる。


「ただいま」

「……無事でよかった」


 二人とも、マーベの研究所で留守中に訓練を積んでいたと聞いていた。けれど、会ってみて、言葉だけじゃない変化を肌で感じる。


 彼女たちは、それぞれ自分の弱さと向き合い、少しずつ強さを手にしてきたのだ。魔力の総量が桁違いに増えていた。


 マーベに一体何を教わったのか恐ろしくなる。


「……マーベのところに行きたい」


 エリスが頷くと、フレミアが一歩先に立って僕を導いた。


 学園の南棟にある研究塔は、以前と変わらず魔術的な封印が張り巡らされ、近づくたびに空気の密度が変わるのを感じる。ここは彼女の城だ。


「……で、今のマーベは?」

「それが……何かに取り憑かれたように研究中なのよ」

「取り憑かれた?」

「時間転移における精神連結反応の逆位相安定化とか……私たちもよく理解できてないのです」


 扉を開けた瞬間、紙と魔力と香草の混じった独特の匂いが鼻を突く。


「……分かった、つまり、記憶の揺らぎを固定するには次元の同期化が必要……でもそれじゃ残留意識の影響を除去できない、くっそ、なんでこの定数が反転してるのよぉぉぉ……!!」


 机に頭を打ちつけながら、髪をぐしゃぐしゃにしている白衣の魔女がいた。


 賢者マーベ、相変わらず、変人だった。


「ただいま、マーベ」


 僕の声に、ぴたりと動きが止まる。


「……あら? あらあら? あらららららら……あああああああああッ!?!? ヴィクター!! 死んでなかったのねぇぇぇぇ!!」

「……死ぬ予定はなかったよ」

「いやいや、精霊の森は瘴気に侵されていて、いつ爆発してもおかしくなかった。あの瘴気量の密度からいって、どう見積もっても生存率7パーセント以下だったはず!?」


 どんなことでも研究と結びつけるマーベらしい心配の仕方に苦笑いを浮かべてしまう。だが、彼女が心配してくれいたことが意外だった。


「君が心配してくれているとは思わなかったよ……」

「ううん。私は計算しただけ。フレミアとエリスが心配していたから気になって。とにかく、帰ってきてよかった! ああ、でもちょっとだけ幽霊でもよかったかも! 幻覚の方が研究対象にできたかもしれない!」


 僕は、言葉を返すのをやめた。


 マーベはマーベだ。それ以上でも以下でもない。


 研究のことになれば饒舌になる。それ以外の言葉はたどたどしい。


「で、君は何の研究をしていたんだ?」

「ああ、それね。次元間における記憶の還流を追跡してたの。あのねヴィクター、貴方の体験には割れた時間軸の痕跡があるのよ。つまり、誰かが過去を弄った形跡」


 前回の研究からそんなことを導き出したのか、そして……ジェイ。思わず、その名が脳裏に浮かぶ。僕が精霊の森で受け取った、彼の言葉と、未来の影。


「ねえ、マーベ。もしも、未来から来た誰かが過去を変えようとしているとしたら?」

「おおっ、いいねぇ! それこそ私が見たい真理の断片! いいじゃない! 改変された歴史を辿って、因果律のズレを調査する! 君も調査隊に入らない!? なんなら副隊長にしてあげる!」

「遠慮しておくよ。今は、ここでの役割に戻らないといけないから」


 そう。僕は学園に戻った。


 ここから、また始めるために。仲間たちと、新しい日々を築くために。


「……でも、また必要になったら呼んで。君の研究には、たぶん僕も深く関わっていくことになると思うから」

「えっ、なにそれ、フラグ!? 結婚フラグ!? 違う? 研究フラグ? それもいいねぇ!」


 僕は、もう一度深くため息をついた。


 だが、不思議と心は軽かった。


 未来の真実は、まだ霧の中だ。けれど、確かなことが一つだけある。


 この場所には、僕を待ってくれる人たちがいる。


 そして、また歩き出すための起点が、確かに存在しているということだ。


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