《side:ヴィクター》
門をくぐった瞬間、胸の奥に積もっていた埃のようなものが、ふっと払い落とされる気がした。
馬車を降り、久しぶりの石畳を歩く。制服姿の生徒たちが行き交い、鐘の音が授業の終わりを知らせている。平和でありいつもの風景が広がっていた。けれど、どこか懐かしさを帯びているのは、僕があの森で時を過ごしてきたからだろう。
非日常とも言える。戦場過ごしている時間は特別であり、過ぎ去る時間が早く感じられた。
「ヴィクター様!」
階段を駆け下りてきた少女が僕の名前を呼ぶ。風のように駆けるその姿は、かつての儚げな印象とは違っていた。足取りは迷いなく、目には力がある。
「エリス……」
「帰ってこられたのですね……!」
彼女は息を弾ませながらも、僕の前で停止する。マジマジと顔を見つめる距離が近い。今にも抱きついてきそうだ。
「ああ、今帰った」
「おかえりなさいませ。心配しました。戦場に行かれていると聞いて。私も! 私もお供したかったです!」
少し恨めしそうに見つめるエリスだが、それでも心から心配してくれているのが分かってしまう。
すぐ後ろから、落ち着いた足音が近づいてくる。
「やっと帰られたのですね……」
フレミアは以前よりも柔らかな雰囲気を纏って笑っていた。僕がいない間に、マーベやエリスとの交流で彼女にも変化があったようだ。
口元を緩めるだけで、あたたかさが伝わってくる。
「ただいま」
「……無事でよかった」
二人とも、マーベの研究所で留守中に訓練を積んでいたと聞いていた。けれど、会ってみて、言葉だけじゃない変化を肌で感じる。
彼女たちは、それぞれ自分の弱さと向き合い、少しずつ強さを手にしてきたのだ。魔力の総量が桁違いに増えていた。
マーベに一体何を教わったのか恐ろしくなる。
「……マーベのところに行きたい」
エリスが頷くと、フレミアが一歩先に立って僕を導いた。
学園の南棟にある研究塔は、以前と変わらず魔術的な封印が張り巡らされ、近づくたびに空気の密度が変わるのを感じる。ここは彼女の城だ。
「……で、今のマーベは?」
「それが……何かに取り憑かれたように研究中なのよ」
「取り憑かれた?」
「時間転移における精神連結反応の逆位相安定化とか……私たちもよく理解できてないのです」
扉を開けた瞬間、紙と魔力と香草の混じった独特の匂いが鼻を突く。
「……分かった、つまり、記憶の揺らぎを固定するには次元の同期化が必要……でもそれじゃ残留意識の影響を除去できない、くっそ、なんでこの定数が反転してるのよぉぉぉ……!!」
机に頭を打ちつけながら、髪をぐしゃぐしゃにしている白衣の魔女がいた。
賢者マーベ、相変わらず、変人だった。
「ただいま、マーベ」
僕の声に、ぴたりと動きが止まる。
「……あら? あらあら? あらららららら……あああああああああッ!?!? ヴィクター!! 死んでなかったのねぇぇぇぇ!!」
「……死ぬ予定はなかったよ」
「いやいや、精霊の森は瘴気に侵されていて、いつ爆発してもおかしくなかった。あの瘴気量の密度からいって、どう見積もっても生存率7パーセント以下だったはず!?」
どんなことでも研究と結びつけるマーベらしい心配の仕方に苦笑いを浮かべてしまう。だが、彼女が心配してくれいたことが意外だった。
「君が心配してくれているとは思わなかったよ……」
「ううん。私は計算しただけ。フレミアとエリスが心配していたから気になって。とにかく、帰ってきてよかった! ああ、でもちょっとだけ幽霊でもよかったかも! 幻覚の方が研究対象にできたかもしれない!」
僕は、言葉を返すのをやめた。
マーベはマーベだ。それ以上でも以下でもない。
研究のことになれば饒舌になる。それ以外の言葉はたどたどしい。
「で、君は何の研究をしていたんだ?」
「ああ、それね。次元間における記憶の還流を追跡してたの。あのねヴィクター、貴方の体験には割れた時間軸の痕跡があるのよ。つまり、誰かが過去を弄った形跡」
前回の研究からそんなことを導き出したのか、そして……ジェイ。思わず、その名が脳裏に浮かぶ。僕が精霊の森で受け取った、彼の言葉と、未来の影。
「ねえ、マーベ。もしも、未来から来た誰かが過去を変えようとしているとしたら?」
「おおっ、いいねぇ! それこそ私が見たい真理の断片! いいじゃない! 改変された歴史を辿って、因果律のズレを調査する! 君も調査隊に入らない!? なんなら副隊長にしてあげる!」
「遠慮しておくよ。今は、ここでの役割に戻らないといけないから」
そう。僕は学園に戻った。
ここから、また始めるために。仲間たちと、新しい日々を築くために。
「……でも、また必要になったら呼んで。君の研究には、たぶん僕も深く関わっていくことになると思うから」
「えっ、なにそれ、フラグ!? 結婚フラグ!? 違う? 研究フラグ? それもいいねぇ!」
僕は、もう一度深くため息をついた。
だが、不思議と心は軽かった。
未来の真実は、まだ霧の中だ。けれど、確かなことが一つだけある。
この場所には、僕を待ってくれる人たちがいる。
そして、また歩き出すための起点が、確かに存在しているということだ。