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第95話

 アースレイン家の屋敷に戻ったことで、戦闘の余韻が終わりを迎えたことに気持ちが落ち着ける。


 夜の帳が降り、学園の屋敷は静けさに包まれていた。


 精霊の森から帰還して数日。多くの報告と手続きが済んだ今、ようやくひと息つける夜だった。


 僕は自室のバルコニーで、一人夜風に当たっていた。月明かりが石畳を照らし、遠くで蛙の声が響く。


 手には温めの紅茶。けれど、その香りは今の僕の思考を整理するには、いささか物足りなかった。


(ジェイは……敵ではなかった)


 それが、精霊の森での旅を通して得た一つの答えだった。


 未来で、彼が僕を断罪したこと。それは確かに記憶にも残されている。しかし、あのとき共に戦い、笑い合ったジェイは、裏切りとはほど遠い存在だった。


 だからこそ、釈然としない。


 どこで、どうして、彼は僕を切り捨てる決断に至ったのか。


 その問いを胸に抱いたまま、夜風に身を任せていると、背後からかすかな気配が近づいてきた。


「……物思いに沈むご主人様って、少し背中が寂しげね。でも、絶望の色は少しも損なわれていない。アハっ! 表面は明るくなったように見えるのに、瞳の奥は深淵に沈んでいるのね」


 いつのまにか現れた彼女は、透けるような夜着を纏い、髪をゆるくまとめている。月明かりを受けた彼女の銀髪が、ほのかに輝いていた。


「……あの絶望を忘れることはない。仲間に裏切られ、拷問の日々。信じていたものが全て崩壊する瞬間。そして見上げた空は……」


 僕の中で、全てが色褪せることなく全てが鮮明に覚えている。


「アハっ、いいわ! 凄く良い」


 僕の言葉にリュシアが、恍惚とした顔を見せる。


「ハァ〜ご主人様は本当にいいわね。私の気持ちをこんなにも高揚させるのは、ご主人様だけよ。従者として、夜の巡回をしていてよかったわ」


 そう言って笑う彼女は、どこか妖艶で、けれどどこか寂しさを含んでいた。


「それとも……あのジェイという少年に心を持っていかれたかしら?」

「……ないな」


 言葉に迷いはなかった。


「ただ、彼があそこまで合理的で、冷徹で、そして……信念を持っていたことに、驚かされたんだ。僕が出会った頃のジェイは、もっと淀んでいた。それが精霊を救えなかったことに起因しているなら、本来のジェイが今のような存在なんだろう」

「ふふ。気づいてるかしら? それって、ご主人様に似てるってことよ」

「……僕に?」


 リュシアの発言は意味がわからない。


「ええ。合理と信念。あなたもまた、その二つで人を導く人間だからよ。彼とは惹かれ合うのかもね」


 リュシアはそう言って、僕の隣に腰掛けた。香の香りがかすかに漂い、肩が触れるか触れないかの距離で、彼女は静かに問う。


「……で? ご主人様は、これからどうするの?」


 その声音は柔らかくもあり、どこか試すようでもあった。


「マーベの研究に関わるしかない」


 僕は答えた。


「あの女は、まっすぐだ。研究以外のことに興味がなく、ある意味で裏表がない。だが、それゆえに怖い。もしも彼女の研究が真実に触れれば、躊躇なく誰かを犠牲にするだろう」

「その誰かが、ご主人様である可能性も?」

「……あるだろうな。僕が何かの因果に巻き込まれているとしたら、彼女は躊躇なく切り取ることを選ぶだろう。マーベは感情で動かない。それが、あの女の裏表のなさだ」


 リュシアは黙って僕の言葉を聞いていた。やがて、紅茶のカップを指先でつまむと、彼女はわざとらしく揺らしながら言った。


「じゃあ、私の役目も決まったわね」

「……リュシアの?」

「ええ。マーベのように心がない人間と向き合うなら、私のように心しかない存在が必要でしょう?」


 人間に対して、魔族の方が心を持つか、面白いことをいう。


 だが、確かに僕にしても、マーベにしても心はないのかもしれない。


 目的のために感情を殺した人間。


「……リュシア、お前は」

「私は魔族よ、ご主人様。あなたの味方であり、同時に、この世界の歪みを見抜く目でもある。私は感じるの。マーベが進もうとしている道の先に、何かがある」


 彼女の瞳は、夜の闇よりも深く、どこまでも冴えていた。


「なら、僕は」


 何をすべきなのか。その問いの先は、まだ見えない。けれど、確かに進むべき方向だけは分かっていた。


 マーベの研究。


 ジェイの未来。


 精霊の祠で交わされた選択。


 それらが絡み合い、一つの大きな流れを生み出そうとしている。


「僕は、マーベを信じたいと思っている。だが同時に、彼女の真意を見誤るわけにはいかない」

「ええ、それが正解だと思うわよ」


 リュシアはそっとカップを置き、僕の肩に寄りかかる。


 その体温は確かに暖かく、魔族であるはずの彼女が、今この瞬間だけは、ただの一人の味方であると感じさせた。


「眠れない夜には、私がついてあげるわよ、ご主人様。それとも今日から一緒に寝てあげましょうか?」


 リュシアは自分が着ていた服を脱ごうとする。


「……いらん」


 月明かりの下、風がそっとカーテンを揺らす。


 まだ、この世界の真実には手が届かない。


(……さて、次はどこを調べるべきか)


 紅茶の香りと、リュシアの吐息と、夜の静寂。


 その全てを背負って、僕は再び歩き出すことを決意していた。


「リュシア、前回に頼んだことを覚えているか?」

「ええ、王族を操る魔族ね」

「ああ、俺は学園を首席で卒業する。そして、その後は王族と関係するだろう」

「アハっ! ご主人様は、どこまでもご主人様なのね。面白いわ」


 リュシアは楽しそうに笑って、立ち去っていった。

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