アースレイン家の屋敷に戻ったことで、戦闘の余韻が終わりを迎えたことに気持ちが落ち着ける。
夜の帳が降り、学園の屋敷は静けさに包まれていた。
精霊の森から帰還して数日。多くの報告と手続きが済んだ今、ようやくひと息つける夜だった。
僕は自室のバルコニーで、一人夜風に当たっていた。月明かりが石畳を照らし、遠くで蛙の声が響く。
手には温めの紅茶。けれど、その香りは今の僕の思考を整理するには、いささか物足りなかった。
(ジェイは……敵ではなかった)
それが、精霊の森での旅を通して得た一つの答えだった。
未来で、彼が僕を断罪したこと。それは確かに記憶にも残されている。しかし、あのとき共に戦い、笑い合ったジェイは、裏切りとはほど遠い存在だった。
だからこそ、釈然としない。
どこで、どうして、彼は僕を切り捨てる決断に至ったのか。
その問いを胸に抱いたまま、夜風に身を任せていると、背後からかすかな気配が近づいてきた。
「……物思いに沈むご主人様って、少し背中が寂しげね。でも、絶望の色は少しも損なわれていない。アハっ! 表面は明るくなったように見えるのに、瞳の奥は深淵に沈んでいるのね」
いつのまにか現れた彼女は、透けるような夜着を纏い、髪をゆるくまとめている。月明かりを受けた彼女の銀髪が、ほのかに輝いていた。
「……あの絶望を忘れることはない。仲間に裏切られ、拷問の日々。信じていたものが全て崩壊する瞬間。そして見上げた空は……」
僕の中で、全てが色褪せることなく全てが鮮明に覚えている。
「アハっ、いいわ! 凄く良い」
僕の言葉にリュシアが、恍惚とした顔を見せる。
「ハァ〜ご主人様は本当にいいわね。私の気持ちをこんなにも高揚させるのは、ご主人様だけよ。従者として、夜の巡回をしていてよかったわ」
そう言って笑う彼女は、どこか妖艶で、けれどどこか寂しさを含んでいた。
「それとも……あのジェイという少年に心を持っていかれたかしら?」
「……ないな」
言葉に迷いはなかった。
「ただ、彼があそこまで合理的で、冷徹で、そして……信念を持っていたことに、驚かされたんだ。僕が出会った頃のジェイは、もっと淀んでいた。それが精霊を救えなかったことに起因しているなら、本来のジェイが今のような存在なんだろう」
「ふふ。気づいてるかしら? それって、ご主人様に似てるってことよ」
「……僕に?」
リュシアの発言は意味がわからない。
「ええ。合理と信念。あなたもまた、その二つで人を導く人間だからよ。彼とは惹かれ合うのかもね」
リュシアはそう言って、僕の隣に腰掛けた。香の香りがかすかに漂い、肩が触れるか触れないかの距離で、彼女は静かに問う。
「……で? ご主人様は、これからどうするの?」
その声音は柔らかくもあり、どこか試すようでもあった。
「マーベの研究に関わるしかない」
僕は答えた。
「あの女は、まっすぐだ。研究以外のことに興味がなく、ある意味で裏表がない。だが、それゆえに怖い。もしも彼女の研究が真実に触れれば、躊躇なく誰かを犠牲にするだろう」
「その誰かが、ご主人様である可能性も?」
「……あるだろうな。僕が何かの因果に巻き込まれているとしたら、彼女は躊躇なく切り取ることを選ぶだろう。マーベは感情で動かない。それが、あの女の裏表のなさだ」
リュシアは黙って僕の言葉を聞いていた。やがて、紅茶のカップを指先でつまむと、彼女はわざとらしく揺らしながら言った。
「じゃあ、私の役目も決まったわね」
「……リュシアの?」
「ええ。マーベのように心がない人間と向き合うなら、私のように心しかない存在が必要でしょう?」
人間に対して、魔族の方が心を持つか、面白いことをいう。
だが、確かに僕にしても、マーベにしても心はないのかもしれない。
目的のために感情を殺した人間。
「……リュシア、お前は」
「私は魔族よ、ご主人様。あなたの味方であり、同時に、この世界の歪みを見抜く目でもある。私は感じるの。マーベが進もうとしている道の先に、何かがある」
彼女の瞳は、夜の闇よりも深く、どこまでも冴えていた。
「なら、僕は」
何をすべきなのか。その問いの先は、まだ見えない。けれど、確かに進むべき方向だけは分かっていた。
マーベの研究。
ジェイの未来。
精霊の祠で交わされた選択。
それらが絡み合い、一つの大きな流れを生み出そうとしている。
「僕は、マーベを信じたいと思っている。だが同時に、彼女の真意を見誤るわけにはいかない」
「ええ、それが正解だと思うわよ」
リュシアはそっとカップを置き、僕の肩に寄りかかる。
その体温は確かに暖かく、魔族であるはずの彼女が、今この瞬間だけは、ただの一人の味方であると感じさせた。
「眠れない夜には、私がついてあげるわよ、ご主人様。それとも今日から一緒に寝てあげましょうか?」
リュシアは自分が着ていた服を脱ごうとする。
「……いらん」
月明かりの下、風がそっとカーテンを揺らす。
まだ、この世界の真実には手が届かない。
(……さて、次はどこを調べるべきか)
紅茶の香りと、リュシアの吐息と、夜の静寂。
その全てを背負って、僕は再び歩き出すことを決意していた。
「リュシア、前回に頼んだことを覚えているか?」
「ええ、王族を操る魔族ね」
「ああ、俺は学園を首席で卒業する。そして、その後は王族と関係するだろう」
「アハっ! ご主人様は、どこまでもご主人様なのね。面白いわ」
リュシアは楽しそうに笑って、立ち去っていった。