廊下を歩く足音が、重厚な天井に反響している。
未来の僕にとって、アースレイン家の屋敷は牢獄のような場所だった。
弱者として虐げられ、苦しみが多い。だが今、その空気すらも僕の中で意味を変えていた。
正面の扉が開かれる。応接間の奥、陽の差さない広間に、一人の男が座っていた。
「久しいな、ヴィクター」
低く、響くような声。
アースレイン家現当主、父上が厳格な雰囲気を纏って、僕の帰りを待っていた。
未来ではあり得ない光景が広がっていた。
年齢を重ねても、筋骨逞しい体躯に、黒く長い髪。そして、燃えるような赤い瞳。かつてはただ恐怖の象徴だった存在に、僕は目を逸らさず向き合った。
いや、過去に戻ってからは一度も恐怖などしたことがない。
イメージというやつなのだろう。
「お久しぶりです、父上」
深く一礼し、正面に立つ。
父は一瞬だけ目を細めたが、すぐに無表情に戻る。
「六段階に至ったと聞いた。加えて、王国学園を首席で卒業したとも」
「ええ、父上との約束を果たしました」
「うむ、その実力と覚悟をもって、当主争いに加わるという意思は変わらぬか?」
「はい。僕は、僕自身の道を選びます。アースレイン家の当主を望みます」
父はしばらく沈黙を保った。やがて、小さく頷き、扉の方を顎で示す。
「ならば、もう一人に挨拶しておけ。お前の兄グレイスだ」
扉が開かれると、そこに立っていたのは、貴族の氷華と呼ばれるのにふさわしい男が現れる。
長兄、グレイス=アースレイン。
赤い髪を持ち、深い紅の瞳を湛えた男。
無駄のない端正な顔立ちには冷徹な知性が滲み、常に貴族としての品格を崩さない。身の丈は高く、鋼のように鍛え上げられた肉体は、以前よりも鍛え抜かれている。
「ヴィクター。やっと戻ってきたな。私はお前がこの場に立つとは思っていなかった。よくぞ勝ち上がったといっておこう」
グレイスとヴィクターの間には、二人の兄弟が存在した。
そして、ヴィクターはその中でも落ちこぼれとして扱われ、アースレイン家では人として扱われることがなかったのだ。
「……久しぶりです、兄上。随分とお待たせしました」
あの冷徹なグレイスから右手を差し出される。僕はそれを見て、一瞬だけためらう。だが、ゆっくりと手を伸ばし、握手を交わした。
その手から伝わる力は、予想よりも強く、そして冷たいものだった。
強い。互いに力を込めるが決着はつかなかった。
六段階に上がって、互角。
もしかしたら、グレイスは七段階にまで上がっているかもしれない。
「当主争いは血では決まらない。六段階に至ったというのは、誇るべきことだ」
その言葉の途中で、グレイスの表情が一瞬だけ鋭くなった。
「勝つのは、この私だと伝えておく。もちろん、お前が本気で来るなら、それもまた歓迎しよう。そこでお前の人生を終わらせてやろう」
「……それでも挑ませていただきます。兄上」
二人の間に、言葉以上の火花が走る。
父はその様子を黙って見つめていた。これから始まる一族の命運を賭けた争いを、盤上から見守るように。
「ならば、互いに存分に戦うがよい。アースレイン家の名に恥じぬようにな」
父の言葉に、僕は深く頷いた。
いよいよ始まる。これは、過去と未来をかけた戦い。アースレイン家を手に入れて、この国の本質を知るために。僕は、もう後戻りするつもりはない。
夜になって、僕は父の指示で、正装に身を包み、正面の客間へと通された。壁には代々の当主の肖像画が並び、その視線が今の僕を試すように感じられる。
ほどなくして、老執事ランディスが静かに現れた。
「日時が決まりました。三の月十五日、アースレイン領中央議場にて。当主争いの開会式が執り行われます」
「……三の月十五日。あと二十日か」
「はっ。準備の猶予としては短くはありませんが、長くもございません。候補者は現時点で五名。ですが、実質的な有力者はお二人でございます」
言うまでもない。
兄グレイスと、僕だ。
「父上の意向か?」
「いえ、王族からの調整が入っております。詳しくは申し上げられませんが、今般の当主争いは、外部の目も強く意識されております」
王族か。未来で、アースレイン家を切り捨て、グレイスに肩入れしたその存在。やはり、動いてきたか。
「ご忠告を。屋敷の者にもいくらか耳が入り込んでおります。どうか、お気をつけを」
「……感謝する、ランディス」
老執事は頭を下げて部屋を後にした。残された静寂の中、僕は一人、思考を巡らせる。
王族が動くということは、グレイスが既に手を打っているということ。
この争いは、単なる武力や魔力の勝負ではない。情報、資金、信頼、過去の因縁、そして政治。
そのすべてを絡め取る泥沼の戦場だ。
屋敷の裏庭にて、ドイルが何やら血相を変えて戻ってきた。
「ヴィクター様。少々……お耳に入れておきたい話がございます」
「どうした?」
「厨房を管理している使用人の一人が、つい先ほど、不自然な動きを見せました。封書を持って、外部と接触していたようです」
「差出人は?」
「見えませんでした。ただ、文に使われた封蝋がグレイス様の母上であるリーファ伯爵家のものかと」
……やはり動いたか、兄上。
リーファ伯爵家は、王都において軍事権を握る名門貴族。かつて、未来でグレイスと共に王国軍の粛清政策を推し進めた家系。
その名前が出たということは、兄が既に支持を取り付けたという意味だ。
「情報操作が始まっている可能性があります。アースレイン家内の使用人を通じて、派閥操作を仕掛けているのかと」
「……よくやった、ドイル。だが、まだ慌てる段階じゃない」
僕は静かに立ち上がり、窓の外に広がる闇を見つめた。
グレイスは冷酷だが、戦略家でもある。今の僕にいきなり刺客を送るような真似はしないだろう。だが、民心と評判を先に奪うことなら、あの男ならやる。
僕は力を示さねばならない。言葉だけでなく、行動で。
「ドイル。明朝、領地の巡回に出ると」
「……領地の、ですか?」
「僕がどんな力を持って戻ったのか。アースレインの民たちに、先に示しておく必要がある。派閥に頼るだけでは勝てない。家を守れるのは、誰か、その本質を見せる。当主争いは政治であり、本質では実力を示すものだ」
「……了解しました、ヴィクター様」
ドイルの顔に不安がよぎったが、それでも頷いてくれた。
兄グレイスが既に手を打ち、王族がその背後にあるなら僕は、僕なりのやり方で切り開く。
実力で、この家の命運を変えてみせる。
そう、僕自身の《存在証明》のために。