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第99話

 薄明の空に、鋭い風が吹き抜ける。


 まだ日も昇りきらぬアースレイン領の城下。

 市場に近い通りの一角を、僕はドイルたちを連れて進んでいた。


 先頭を歩く僕は、黒の軍装に身を包み、腰には剣を下げている。目を見開いて前方を見渡せば、すでに何人かの視線を感じていた。


 この地に戻ってきたことはまだ公にされていないはずだが、それでも僕の姿に目を留める者が少しずつ増えていくのがわかった。


「……まさか、あれが落ちこぼれだったヴィクター様か?」

「おい! 落ちこぼれなんて失礼だろ!」

「そうだよ。王国の学院を首席を取られて帰ってこられたのよ」

「それに侯爵家の当主争いにも参加されるそうだぞ」


 そんな囁きが、通りの石畳を撫でる風とともに耳に届いた。

 だが、僕はそれを無視する。ただ静かに、自分の足でこの地を踏みしめる。


 昔の僕が恐れ、もがき苦しんだ場所。だが今は違う。恐れる理由など、どこにもない。この立場として領地を歩くことになるなど思っていなかった。


 未来では、グレイスを打倒して、支配者のようだった。


 だが、今は正式な当主候補としてこの領地を歩いている。


「これより、当主候補であるヴィクター様が領地視察を行います。民の皆様、ご遠慮なく声をお聞かせください」


 ドイルが前に出て宣言した瞬間、ざわめきが起きた。


 僕の目に映る街並みは、かつての荒れ果てた景色ではなかった。所々に修繕の手が入り、水路は整備されている。貧しさの中にも、どこか生活の温もりがある。


 露店の前を通りかかったとき、年老いた魚売りが困った顔で立ち尽くしていた。

 足元には破れた籠から水が漏れ、魚がばたついている。


「……おじいさん、その籠、底が抜けていますよ」


 エリスがしゃがんで、籠を持ち上げた。

 老人が僕を見上げ、目を丸くする。


「アースレイン……様の従者様?」

「今日はただの巡回者です。補修に使える木材なら、近くの工房にありました。案内しましょうか?」


 エリスの手つきは、王都で身につけた技術そのものだ。剣術だけでなく、生き延びるための知恵を学んだ姿勢だった。


 老人は深く頭を下げ、「ありがとうございます……」とつぶやいた。

 その様子に周囲の視線が変わっていくのがわかる。


「……あれがヴィクター坊ちゃん……?」

「民の声を、聞いてくださるのか?」


 反応はさまざまだ。驚き、不信、そして微かな期待。


 僕は町の中心に向かって歩き出す。


「僕は、強い。アースレイン家の風格や血ではなく、生き抜く力で示す」


 それは自分自身への誓いでもあった。すると、群れの中から小さな影が飛び出してきた。


「ヴィクター様! 村の水が止まったの! 見に来てくれますか?」


 少女が泥だらけの足で、僕の袖をぐいと引っ張った。ドイルが動こうとしたが、それを制してしゃがみ、彼女と目を合わせる。


「名前は?」

「ティナ。丘のほうの村に住んでいます」

「案内してくれるか、ティナ?」


 少女は目を輝かせ、「はい!」と頷くと僕の手を取って走り出した。


 僕は民衆の見ている前で、町を出て彼女の村を訪れた。


 水源を確認すると、魔物が救っているのを見つけた。獣道のような斜面を抜けた先に、岩肌に囲まれた天然の泉が現れた。


「……臭うな」


 腐敗と、血の臭い。獣のようで、獣でない。


 足元に転がっていたのは、切られた獣骨。それも人の手ではなく、何かに噛み砕かれた痕。


「ヴィクター様、左です!」


 ドイルの叫びに即座に反応し、魔力を左腕に集中させる。


 次の瞬間、影が跳ねた。


 牙紋獣、狼のような体に、蛇のような胴を持つ異形の獣だった。水源に巣くい、地中の水脈を塞いで縄張りとした希少魔物。通常なら討伐隊を要請するレベルだ。


「吠えるな。ここは人の地だ」


 魔力を掌に凝縮する。周囲の空気がぴんと張りつめる。


 魔式:紅影刃


 一歩踏み込み、肘を切り上げると同時に、紅の刃が空を斬った。


 魔物の牙が目前に迫るが、遅い。


 咆哮と殺意の交差点で、僕は確信した。六段階まで到達した力は、もう恐怖に飲まれるものじゃない。


 一閃、紅の軌跡が魔物を貫いた。獣の体は空中でひしゃげ、岩にぶつかり、崩れ落ちる。ドイルが駆け寄る。


「お怪我は!?」

「問題ない。確認しろ、水脈が通るか」


 魔物の死骸を退かし、泉の岩肌を踏み割ると、濁った水が一気に噴き出した。濁りは次第に澄み、再び流れ始める水音が、森に響く。


「……流れた……! ヴィクター様、すごい!」


 ティナが走り寄ってくる。僕の足にしがみつくようにしながら、涙を浮かべて笑った。


「ありがとうっ、ほんとうに……!」

「礼はいい。ただ、次からは危険な時は誰かを呼ぶように」


 そう言いながら僕はしゃがみ込み、彼女の頭を軽く撫でた。


 今回のことが当主争いには直接的には関係しない。


 だけど、未来では得られなかった環境を知ることはできる。


「さあ、村に戻ろう。これでまた、田畑も戻るはずだ」


 この日の出来事は、ティナの村だけでなく、翌日には領内の各所に広まり、若き当主候補が自ら魔物を討ち、水脈を戻したという話として、アースレイン領の空気を確かに変えていった。


 昼には兵舎で若い兵士たちに模擬訓練を見せ、夕方には城門に立ち、衛兵たちの配置を見直すよう助言した。


 最も無能と罵られた男が、地に足をつけて民と向き合い、現場を歩いたのだ。


 それが広まるのに、時間はかからなかった。


 夕刻、屋敷への帰路で、ドイルが言った。


「ヴィクター様。これは……予想以上の反響です」

「そうか、それはどうでもいい」


 窓の外には、柔らかな灯がまたたいていた。この家に生まれ、虐げられた日々があった。だが今、そのすべてが糧になっている。


 兄グレイスの陰謀があろうと、王族が介入しようと、僕は自分のやり方で挑む。


 全てを打ち砕く方法で。



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