目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第100話

《side グレイス・アースレイン》


 次期当主候補筆頭として、西塔の最上階、私の執務室に赤い夕陽が差し込む。部屋の空気は冷たく、沈殿したような静けさが支配していた。


 机上には、王都から届いた機密文書が広がっていた。


 差出人は、内密情報統制局の筆頭官吏、私の腹心とも言える男だからだ。


「……やはり動いたか」


 弟、ヴィクター・アースレイン。


 他の弟たちを退けて私と対立するまでやってくるとは予想外だったが、六段階に至り、王国学園を首席で卒業したという報告は、もはや無視できない現実となっていた。


『王族の一部が、ヴィクターに興味を示しています。精霊の森に関与して、事件を快悦したこと、賢者マーベと交流を持ち、様々な陣営の意識が向けられている』


 文書の内容が、私の脳裏に焼き付いて離れない。


 私は椅子から立ち上がり、部屋の奥にあるアースレイン領の地図へと歩を進める。農村、関所、兵舎、民会所。


 すべて私の掌握下にあるはずの土地だ。


 だが、そこに新たな印が加わっていた。


 小丘の村、ヴィクターが視察に赴き、水脈を修復したと噂された村だ。


「……まだ派手に動いたわけではない。だが、民の間で名前が囁かれるようになれば、それはやがて火となる」


 私は手袋を外し、指先で村の位置をなぞる。燃やすか、冷ますか。その判断を下しかねている自分に、苛立ちを覚えた。


 扉をノックする音が響く。


「……入れ」


 現れたのは、側近であり専属執事のラミルだった。黒衣に身を包み、目元に鋭さを残す男。だが、その額には汗が浮かんでいた。


「報告を」

「はっ。……城下にて、ヴィクター様が兵舎で模擬訓練を披露したとのこと。若年兵の間で称賛の声が上がっております」

「誰がその情報を広めた?」

「……民の口から自然と」


 私はラミルを見つめた。長い沈黙の後、言葉を落とす。


「自然など、政治には存在しない。誰かが、あの場に仕込んだな」

「……は」

「王族か、それとも……」


 王家も一枚岩ではない。私を後押しする者もいれば、邪魔をしたいと考える者もいる。それにヴィクターが気付けば厄介なことになる。


 思考はさらに深く沈んでいく。


 兄弟とはいえ、もはや敵。ヴィクターが些細なことで民を味方につけるのなら、こちらは貴族と軍を抑えるしかない。だが、それだけでは足りない。


「証拠が要るな」

「証拠、ですか?」

「やつの過去だ。異端性。反逆の芽。あるいは、王国に仇なす思想。流を我に傾ける証拠を集めよ。なんでもいい。奴の信頼を崩せるものを見つけろ」


 その声には、鋼のような冷たさがあった。


「……承知しました」


 ラミルが去っていくと、部屋には再び沈黙が戻った。


 私は机の上に置かれた一枚の古文書に手を伸ばす。剣神のアースレイン家に伝わる、禁術に関するものだった。


(使うかどうかは、状況次第だ。だが……ヴィクターが持つ魔剣に対抗できる方法は用意しておかなければならない)


 勝つためなら、全てを使う。


 そう教えられて育ってきた。王族に従うことも、忠誠を見せることも、道具に過ぎない。アースレイン家では強い者しか生き残れない。認めもされない。


「弟よ……お前が示した民の力が、アースレイン家では意味のない最弱の行為だ。掴むべきは王族の権力。さぁ、どう見えるか分かっているのか?」


 皮肉な笑みが、私の唇に浮かんだ。


 もし王族が本当にヴィクターを支持する気ならば、その者たちいつかは邪魔になる。ならば、ヴィクターと共に炙り出してしまうのも一興か?


「近いうちに王そのものを……取り替える時が来るのかもしれんな。あいつを呼び寄せるのもありか?」


 その言葉は誰にも聞かれなかった。


 だがその夜、アースレイン領の空には、微かに血のような赤が混じっていた。


 私が呼び鈴を鳴らしたら、ラミルが現れる。


「命令だ。東辺の封印庫へ使いを出せ。彼に動いてもらう準備を。規定の手順は守らせろ。接触条件を誤れば、取り返しがつかん」

「……あの方を呼び戻すのですか」

「ああ。必要になる。火を消すには、より大きな炎をぶつけねばならん。ヴィクターの善意では、民は導けても押さえきれん。ならば……恐怖を植えつける」


 ラミルがためらう気配を見せたが、私は構わず言葉を継いだ。


「加えて、貴族会議の議事録に細工しろ。ヴィクターの魔力に変異の兆候ありと……裏づけは不要だ。ただ、誤解されるように記してあればいい」

「かしこまりました」


 ラミルが静かに退出すると、私は椅子に深く身を沈めた。


 権威とは信じ込ませることだ。疑い、恐れ、誤認、そして事実。


 その境目を曖昧にすればするほど、支配の綱は太くなる。


 この領の八割は私の側にある。


 あとは王族の意志次第。だが、そこにも綻びはある。


 ヴィクターに目を向けている王族の一人の名が気にかかる。


(王家内の権力闘争に、あの男が巻き込まれているのだとしたら……)


 利用できる。逆に、引きずり落とす材料にもできる。


 そこで私は選択する。


 指先で触れた黒い文様が、静かに輝いた。


 これはアースレインの最古の血印だ。対話を拒んだ古き従属者を縛る魔術。封じられた異形、灰の従僕を呼び戻すことができる唯一の契約。


 これを使えば、城下に厄災の前兆をばら撒ける。原因は不明だが、人々の脳裏には恐怖が残る。そして、そこに現れるのがヴィクターだ。


 救世主のように人々を救う姿があれば、それは民の信頼に直結する。


 だが同時に、過ぎた英雄譚は王族と貴族にとっては“危険因子”となる。


(その瞬間に、やつの足元を掬うのだ)


 私は手紙を書き始めた。送り先は王都貴族派の重鎮、ラズワルド侯。忠誠は見せているが、内心では王政を嫌う老獅子だ。


《貴族への脅威、王家の動揺、そして民衆による統治の予兆。これらを排すべきだと、私は考えます》


 筆が止まらない。すでに絵図は整っている。


 ヴィクターに与える試練は、魔物でも、訓練でもない。人だ。偽情報と、王族の裏切りと、貴族の圧力と、そして……身内の策謀。


 私は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。


 アースレインの町の明かりが、遠くにちらついている。あの中に、彼の姿があるのだろう。


「弟よ。お前の足元がどれだけ脆いか……見せてやるさ」


 そう呟いた瞬間、封印の陣が小さく脈動した。


 灰の従僕が、呼応している。


 静かに、だが確実に、夜の空気が冷えてゆくのを感じた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?