目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第102話

 日が沈み、屋敷に静寂が戻る頃、裏門から合図が届いた。


「来たな」


 僕は手元の書簡を伏せ、席を立つ。ドイルもエリスもこの場にはいない。迎えるのは、僕一人で十分だと思った。


 影のように黒装束が門を抜け、その中心に立つ男。目元の鋭さはかつてと変わらず、だが背負う威圧感は比べ物にならなかった。


「……ジェイ」

「久しいな、大将。お前もずいぶん貴族くさくなったな」


 戦場とは違う姿に、ジェイが皮肉を言ってくる。


 だが、笑みとともに、ジェイは肩をすくめる。


 傭兵として、戦場に身を投じ、今や百人を率いる傭兵団の頭となっていた。僕にとっては、戦場で一度も背を預けることをためらわない。


 数少ない「味方」だと思っている。


 執務室に通し、酒を注ぎ終えたところで、彼は言った。


「長兄グレイスに勝ちたいんだろ。でなきゃ、俺を呼ばねぇとな」

「正直なところ、手札が足りない。剣も民もあるが、情報戦ではまだ劣る」

「じゃあ言え。何を知りたいか。いいや、俺が全ての戦略を描いても良い」


 僕は懐から一通の書簡を差し出す。


「これは、グレイスの腹心ラミルの動きの記録だ。王族への供応、軍資金の流れ。何かしらの裏があるはずだ。掴んでくれ」


 ジェイは一瞥すると、鼻で笑った。


「いいねぇ……その目。負ける気がしねぇ顔だ」

「……けれど、勝ち方は問われる。あくまで正攻法でなければならない」

「お前はそうだろうな。でも俺は違う。泥を踏むのは得意だ」


 彼は椅子に深く腰を落とし、指先でグラスの縁をなぞりながら続けた。


「王政からの裏金。戦災村で消えた資材。グレイスが手を染めてる可能性があるものは、いくつか候補がある。俺の部下に探させる。三日くれ。証拠と噂をセットで流してやる」

「噂、か」

「証拠よりも先に疑念が広がる。貴族たちは危うい当主には賭けない。次に必要なのは、代わりに担げる旗印だ。つまり……お前ってわけだ」


 ジェイは手紙を出した時から、戦略を考えてきてくれたのだろう。


 頭を使うのはジェイの分野だ。僕は全てを蹴散らすだけだ。


「その旗印が真に意味を持つなら」

「なるさ。だから、安心して前に出ろ。お前は前線の英雄でいろ。後ろの闇は、俺が引き受ける」


 ジェイの言葉に、僕は短く頷いた。


「……頼む」

「任せとけ、大将。お前が勝つための舞台は、俺が作ってやる」


 彼は立ち上がると、暗闇の中へ消えていった。


 その足音が途切れたとき、部屋の空気が僅かに冷たく感じられた。


 策略の風が、ついに吹き始めた。


 ジェイが闇に溶けるように姿を消したあとも、部屋には彼の残した余熱のような緊張感が残っていた。


 僕は椅子に腰を落とし、机の引き出しから小さな鈴を取り出す。音はほとんど鳴らなかったが、扉の向こうで気配が動いた。


 すぐに、軽快な足音とともに扉が開く。


「呼んだかしら、ご主人様?」


 リュシアが入ってきた。相変わらず背筋を伸ばし、しかしその目はすでに“遊び”ではなく“任務”に切り替わっていた。


「ああ……グレイスの動向を、改めて調べてほしい。世界はすでに変わり始めている。そして、王家に後ろ盾をもらっているなら、グレイスにも何か憑いているかもしれない」


 僕の言葉に、彼女はわずかに目を細めた。


「アハっ! ご主人様もそんなことに気づくようになったのね」

「バカにしているのか? フレミアが後ろ盾になった。ジェイも動く。だけど、それだけじゃ足りない。決定打が必要だ。グレイス自身のことを調べてくれ」


 リュシアはそっと僕に近づいてくる。


「ご主人様、今回のご褒美は何かしら?」

「何が望みだ?」

「ご主人様の初めて。フレミアでも、エリスでもない。私が欲しいわ」


 静かに笑うリュシアの唇が、わずかに動いた。


「好きにしてやる。お前が満足いく仕事をしてくれればな」

「アハっ! ……約束よ」

「仕事に迎え。これはまだ通過点に過ぎない」

「ええ、全てはご主人様の真実を知るために」


 リュシアは真面目な顔を見せる。


「グレイスの情報、洗ってみせるわ……王族との関係も、今なら揺らせるかもしれない」

「どういう意味だ?」

「一部の王族に、グレイスを疎ましく思っている者がいるわ。……そして、貴族派の一部も。力を持ちすぎた当主候補を危険視している」


 彼女の言葉に、ジェイの指摘が重なる。


「……そうか。じゃあ、その恐れを育ててくれ。疑念は芽吹かせれば、やがて拡がる」

「了解。ご主人様。私が咲かせてあげるわ、あなたのための黒い花を」


 そう言ってリュシアは踵を返した。彼女が本気で調査を始めれば、王都の地下から西塔の天井裏まで、すべてが暴かれるだろう。


 リュシアの背中を見送ったあと、僕はゆっくりと窓辺に立った。


 空は曇り始めていた。グレイスが動くなら、嵐はもうすぐ来る。


 けれど、それを迎え撃つ準備は整いつつある。


 僕は胸の奥に仕舞ってきたもう一つの切り札の名前を、そっと心の中で呼んだ。


 兄の謀略が、ただの策略で済むうちはいい。


 だが、未来で兄を殺した際に発した言葉を思い出していた。


 命を奪う毒を用いた時には、こちらも抑えを外す。


 全てを変えていく。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?