日が沈み、屋敷に静寂が戻る頃、裏門から合図が届いた。
「来たな」
僕は手元の書簡を伏せ、席を立つ。ドイルもエリスもこの場にはいない。迎えるのは、僕一人で十分だと思った。
影のように黒装束が門を抜け、その中心に立つ男。目元の鋭さはかつてと変わらず、だが背負う威圧感は比べ物にならなかった。
「……ジェイ」
「久しいな、大将。お前もずいぶん貴族くさくなったな」
戦場とは違う姿に、ジェイが皮肉を言ってくる。
だが、笑みとともに、ジェイは肩をすくめる。
傭兵として、戦場に身を投じ、今や百人を率いる傭兵団の頭となっていた。僕にとっては、戦場で一度も背を預けることをためらわない。
数少ない「味方」だと思っている。
執務室に通し、酒を注ぎ終えたところで、彼は言った。
「長兄グレイスに勝ちたいんだろ。でなきゃ、俺を呼ばねぇとな」
「正直なところ、手札が足りない。剣も民もあるが、情報戦ではまだ劣る」
「じゃあ言え。何を知りたいか。いいや、俺が全ての戦略を描いても良い」
僕は懐から一通の書簡を差し出す。
「これは、グレイスの腹心ラミルの動きの記録だ。王族への供応、軍資金の流れ。何かしらの裏があるはずだ。掴んでくれ」
ジェイは一瞥すると、鼻で笑った。
「いいねぇ……その目。負ける気がしねぇ顔だ」
「……けれど、勝ち方は問われる。あくまで正攻法でなければならない」
「お前はそうだろうな。でも俺は違う。泥を踏むのは得意だ」
彼は椅子に深く腰を落とし、指先でグラスの縁をなぞりながら続けた。
「王政からの裏金。戦災村で消えた資材。グレイスが手を染めてる可能性があるものは、いくつか候補がある。俺の部下に探させる。三日くれ。証拠と噂をセットで流してやる」
「噂、か」
「証拠よりも先に疑念が広がる。貴族たちは危うい当主には賭けない。次に必要なのは、代わりに担げる旗印だ。つまり……お前ってわけだ」
ジェイは手紙を出した時から、戦略を考えてきてくれたのだろう。
頭を使うのはジェイの分野だ。僕は全てを蹴散らすだけだ。
「その旗印が真に意味を持つなら」
「なるさ。だから、安心して前に出ろ。お前は前線の英雄でいろ。後ろの闇は、俺が引き受ける」
ジェイの言葉に、僕は短く頷いた。
「……頼む」
「任せとけ、大将。お前が勝つための舞台は、俺が作ってやる」
彼は立ち上がると、暗闇の中へ消えていった。
その足音が途切れたとき、部屋の空気が僅かに冷たく感じられた。
策略の風が、ついに吹き始めた。
ジェイが闇に溶けるように姿を消したあとも、部屋には彼の残した余熱のような緊張感が残っていた。
僕は椅子に腰を落とし、机の引き出しから小さな鈴を取り出す。音はほとんど鳴らなかったが、扉の向こうで気配が動いた。
すぐに、軽快な足音とともに扉が開く。
「呼んだかしら、ご主人様?」
リュシアが入ってきた。相変わらず背筋を伸ばし、しかしその目はすでに“遊び”ではなく“任務”に切り替わっていた。
「ああ……グレイスの動向を、改めて調べてほしい。世界はすでに変わり始めている。そして、王家に後ろ盾をもらっているなら、グレイスにも何か憑いているかもしれない」
僕の言葉に、彼女はわずかに目を細めた。
「アハっ! ご主人様もそんなことに気づくようになったのね」
「バカにしているのか? フレミアが後ろ盾になった。ジェイも動く。だけど、それだけじゃ足りない。決定打が必要だ。グレイス自身のことを調べてくれ」
リュシアはそっと僕に近づいてくる。
「ご主人様、今回のご褒美は何かしら?」
「何が望みだ?」
「ご主人様の初めて。フレミアでも、エリスでもない。私が欲しいわ」
静かに笑うリュシアの唇が、わずかに動いた。
「好きにしてやる。お前が満足いく仕事をしてくれればな」
「アハっ! ……約束よ」
「仕事に迎え。これはまだ通過点に過ぎない」
「ええ、全てはご主人様の真実を知るために」
リュシアは真面目な顔を見せる。
「グレイスの情報、洗ってみせるわ……王族との関係も、今なら揺らせるかもしれない」
「どういう意味だ?」
「一部の王族に、グレイスを疎ましく思っている者がいるわ。……そして、貴族派の一部も。力を持ちすぎた当主候補を危険視している」
彼女の言葉に、ジェイの指摘が重なる。
「……そうか。じゃあ、その恐れを育ててくれ。疑念は芽吹かせれば、やがて拡がる」
「了解。ご主人様。私が咲かせてあげるわ、あなたのための黒い花を」
そう言ってリュシアは踵を返した。彼女が本気で調査を始めれば、王都の地下から西塔の天井裏まで、すべてが暴かれるだろう。
リュシアの背中を見送ったあと、僕はゆっくりと窓辺に立った。
空は曇り始めていた。グレイスが動くなら、嵐はもうすぐ来る。
けれど、それを迎え撃つ準備は整いつつある。
僕は胸の奥に仕舞ってきたもう一つの切り札の名前を、そっと心の中で呼んだ。
兄の謀略が、ただの策略で済むうちはいい。
だが、未来で兄を殺した際に発した言葉を思い出していた。
命を奪う毒を用いた時には、こちらも抑えを外す。
全てを変えていく。