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第108話

 誓いの輪の中央、僕とグレイスの間に風が吹き抜ける。


 だが、僕の心にあるのは静寂だけだった。


 尊敬も、絆も、血の情もすべてを捨てて、ここまで来た。

 兄など超えて当然の壁だ。情をかける価値すらない。


「来い、グレイス。貴様のすべてを、否定してやる」

「……随分と強気になったものだな、落ちこぼれ」


 金糸の軍装に身を包んだ兄が、一歩前へ出る。


 剣が抜かれる音が、やけに遠くに聞こえた。

 刃が交わる前から、剣気が交差し、周囲の空気が震えている。


 地を蹴る。次の瞬間、剣がぶつかる。


 金属が悲鳴を上げた。打ち合うたび、地面が割れ、瓦礫が弾け飛ぶ。


「貴様の剣では、私には届かんッ!」

「なら試せよ。僕が斬るためだけに研いできた刃だ」


 兄は灰の従僕の技術を自分の肉体に組み込み、異常な反応速度と剛力を得ていた。斬撃は重く、速い。人間離れした動きに、常人ならば瞬時に首を飛ばされる。


 だが、僕は未来で一度、これを殺した。


 だからこそ、今は見える。躱せる。打ち砕ける。


「終わりだ、グレイス」


 強襲する剣を逸らし、体勢が崩れた兄の懐に滑り込む。


 正統なる型を無視した変則の太刀筋。


「な……っ」


 胸元を裂く斬撃が、兄の装甲を斬り裂いた。


 兄は後退し、血を吐く。視線に混じるのは驚愕。否、恐怖か。


 だが、僕は止まらない。


 情けなど、最初から用意していない。


「貴様は、家を道具にし、兵を捨て駒にし、父上さえも政治の道具に変えた」

「貴様に何が分かるッ!」

「分かるさ。僕はそれを一度見てきた」


 力で全てを握ると思っていた男に、慈悲を与える意味はない。


 兄が灰の魔術で暴走する前に、僕は突き刺すように踏み込んだ。


 鋭い一撃。


 喉元すれすれに刃を止めたのは、ただの演出だ。

 見せしめとして、それ以上の意味はない。


 兄が崩れ落ちた。


 勝敗は、明白だった。


 そして僕は、刃を振り払い、背を向ける。


「地面に這いつくばって、負け犬のまま朽ちろ。二度と立ち上がるな」


 観衆が沸き上がる。


 兄を完全に否定し、その存在を潰す。


 必要なのは、結果だけだ。


 観衆の歓声が、波のように押し寄せる。


 兄は膝をついたまま動かない。勝敗は、誰の目にも明らかだった。


 僕は剣を収めた。


 これで終わりだ。貴様のすべてを、否定した。


 そのつもりだった。


 だが、その時だった。


「……お前は、やはり甘いな、ヴィクター」


 その声が、血を吐いた兄の喉から洩れた。


 視線を上げると、そこには崩れた姿のまま、なおも笑うグレイスがいた。


 その口元が、血で濡れてなお、ぞっとするほど静かだった。


「貴様の剣は、確かに速い……そして、強い。だが」


 兄の足元の石畳に、見たことのない紋章が浮かび上がる。


 灰色の魔術陣。王家の封印式に酷似した、禁術に属する構造だ。


「その速さも、力も、魂も、私のこのための器に喰わせる前座にすぎん」


 何かが、起こった。地鳴り。空気の振動。周囲の観衆が悲鳴を上げる。


 グレイスの背中から、何かが現れた。


 それは黒い翼だった。肉体とは異質な、魔力が凝縮した災厄の塊。


 血と灰で編まれた、災厄の化身。


「……まさか、魔喰の式典を完成させていたのか」

「神と契り、灰の従僕の王すら喰らい、王家の裏儀式調律の儀を受け継いだ」


 グレイスの声は、もはや人のものではなかった。


 立ち上がった兄の姿は、もはや人間の領域ではない。肉体が修復され、瞳は漆黒に染まり、口からは低く響く呪言のような声が漏れていた。


 圧倒的な魔力が、空気を灼く。


「その力がお前の奥の手なのか?」


 罠や伏兵を予想していた。もちろん、それらに対処するようにジェイには伝えていたが、まさか灰の従僕を取り込んで、自身が灰の王になるとは。


「正統なる後継者にして、王女の伴侶。そして、アースレインの次代。その資格があるからこそ、私はこの力を得たのだ」


 理解した。


 兄は、すべてを賭けてきた。


 この一戦で、命ごと賭けて、王家すら騙し、魔そのものに成り果ててでも、僕を殺しにきている。


 その覚悟、認めはしない。


 未来のグレイスが灰の王になるという結末はなかった。だが、未来と今では、何かが書き変わっている。


 実際、知らぬことと侮っていた。あそこまで叩き潰したと思っていた僕が、今、後退している。


 兄が振るう刃は、魔力と質量を伴い、空間を歪める。

 一撃ごとに広場の石畳が爆ぜ、魔力障壁が砕け、フレミアの浄化すらすり抜ける。


「貴様の正しさなど、どうでもいい。勝った者が全てを得るこの国の理を、体現してみせる!」


 押されていた。


 僕が、押されている。


 あれほど磨いた剣技が通用しない。


 灰の従僕どころか、その王すら取り込んだ、異形の力。


 剣で切ってもすぐに元に戻る。


 人の理すら逸脱したその存在。


「……いいだろう。なら僕も、ここで限界を越える。『冥哭』力を貸せ。闇を喰らえ」


 これまで温存していた第七段階の気配が、身体の芯から立ち上がる。


 限界を超えた先。


 兄を喰らって僕は第七段階への階段を登る。


 兄と僕、どちらかが倒れるまで、この戦いは終わらない。


 すでに灰の王になって第七段階の力を得た兄を、僕が喰らう。


 そして、ここからが、本当の決着だ。




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