誓いの輪の中央、僕とグレイスの間に風が吹き抜ける。
だが、僕の心にあるのは静寂だけだった。
尊敬も、絆も、血の情もすべてを捨てて、ここまで来た。
兄など超えて当然の壁だ。情をかける価値すらない。
「来い、グレイス。貴様のすべてを、否定してやる」
「……随分と強気になったものだな、落ちこぼれ」
金糸の軍装に身を包んだ兄が、一歩前へ出る。
剣が抜かれる音が、やけに遠くに聞こえた。
刃が交わる前から、剣気が交差し、周囲の空気が震えている。
地を蹴る。次の瞬間、剣がぶつかる。
金属が悲鳴を上げた。打ち合うたび、地面が割れ、瓦礫が弾け飛ぶ。
「貴様の剣では、私には届かんッ!」
「なら試せよ。僕が斬るためだけに研いできた刃だ」
兄は灰の従僕の技術を自分の肉体に組み込み、異常な反応速度と剛力を得ていた。斬撃は重く、速い。人間離れした動きに、常人ならば瞬時に首を飛ばされる。
だが、僕は未来で一度、これを殺した。
だからこそ、今は見える。躱せる。打ち砕ける。
「終わりだ、グレイス」
強襲する剣を逸らし、体勢が崩れた兄の懐に滑り込む。
正統なる型を無視した変則の太刀筋。
「な……っ」
胸元を裂く斬撃が、兄の装甲を斬り裂いた。
兄は後退し、血を吐く。視線に混じるのは驚愕。否、恐怖か。
だが、僕は止まらない。
情けなど、最初から用意していない。
「貴様は、家を道具にし、兵を捨て駒にし、父上さえも政治の道具に変えた」
「貴様に何が分かるッ!」
「分かるさ。僕はそれを一度見てきた」
力で全てを握ると思っていた男に、慈悲を与える意味はない。
兄が灰の魔術で暴走する前に、僕は突き刺すように踏み込んだ。
鋭い一撃。
喉元すれすれに刃を止めたのは、ただの演出だ。
見せしめとして、それ以上の意味はない。
兄が崩れ落ちた。
勝敗は、明白だった。
そして僕は、刃を振り払い、背を向ける。
「地面に這いつくばって、負け犬のまま朽ちろ。二度と立ち上がるな」
観衆が沸き上がる。
兄を完全に否定し、その存在を潰す。
必要なのは、結果だけだ。
観衆の歓声が、波のように押し寄せる。
兄は膝をついたまま動かない。勝敗は、誰の目にも明らかだった。
僕は剣を収めた。
これで終わりだ。貴様のすべてを、否定した。
そのつもりだった。
だが、その時だった。
「……お前は、やはり甘いな、ヴィクター」
その声が、血を吐いた兄の喉から洩れた。
視線を上げると、そこには崩れた姿のまま、なおも笑うグレイスがいた。
その口元が、血で濡れてなお、ぞっとするほど静かだった。
「貴様の剣は、確かに速い……そして、強い。だが」
兄の足元の石畳に、見たことのない紋章が浮かび上がる。
灰色の魔術陣。王家の封印式に酷似した、禁術に属する構造だ。
「その速さも、力も、魂も、私のこのための器に喰わせる前座にすぎん」
何かが、起こった。地鳴り。空気の振動。周囲の観衆が悲鳴を上げる。
グレイスの背中から、何かが現れた。
それは黒い翼だった。肉体とは異質な、魔力が凝縮した災厄の塊。
血と灰で編まれた、災厄の化身。
「……まさか、魔喰の式典を完成させていたのか」
「神と契り、灰の従僕の王すら喰らい、王家の
グレイスの声は、もはや人のものではなかった。
立ち上がった兄の姿は、もはや人間の領域ではない。肉体が修復され、瞳は漆黒に染まり、口からは低く響く呪言のような声が漏れていた。
圧倒的な魔力が、空気を灼く。
「その力がお前の奥の手なのか?」
罠や伏兵を予想していた。もちろん、それらに対処するようにジェイには伝えていたが、まさか灰の従僕を取り込んで、自身が灰の王になるとは。
「正統なる後継者にして、王女の伴侶。そして、アースレインの次代。その資格があるからこそ、私はこの力を得たのだ」
理解した。
兄は、すべてを賭けてきた。
この一戦で、命ごと賭けて、王家すら騙し、魔そのものに成り果ててでも、僕を殺しにきている。
その覚悟、認めはしない。
未来のグレイスが灰の王になるという結末はなかった。だが、未来と今では、何かが書き変わっている。
実際、知らぬことと侮っていた。あそこまで叩き潰したと思っていた僕が、今、後退している。
兄が振るう刃は、魔力と質量を伴い、空間を歪める。
一撃ごとに広場の石畳が爆ぜ、魔力障壁が砕け、フレミアの浄化すらすり抜ける。
「貴様の正しさなど、どうでもいい。勝った者が全てを得るこの国の理を、体現してみせる!」
押されていた。
僕が、押されている。
あれほど磨いた剣技が通用しない。
灰の従僕どころか、その王すら取り込んだ、異形の力。
剣で切ってもすぐに元に戻る。
人の理すら逸脱したその存在。
「……いいだろう。なら僕も、ここで限界を越える。『冥哭』力を貸せ。闇を喰らえ」
これまで温存していた第七段階の気配が、身体の芯から立ち上がる。
限界を超えた先。
兄を喰らって僕は第七段階への階段を登る。
兄と僕、どちらかが倒れるまで、この戦いは終わらない。
すでに灰の王になって第七段階の力を得た兄を、僕が喰らう。
そして、ここからが、本当の決着だ。