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第110話

 勝者に許されたのは、歓喜ではなく沈黙だった。


 グレイスの命を断ち、全てを終えたはずの戦場に、僕は一人で立ち尽くしていた。


 グレイスの陣営はすでに姿を消している。アースレイン家で揉め事を起こせば、今度は奴らが犯罪者として扱われるからだ。


 周囲では、ジェイたちが歓声をあげている。


 この瞬間から、アースレイン家を背負う者は、僕になる。


 そして、継承の儀式が始まった。


 アースレイン侯爵家の本邸。その中心に据えられた《継承の間》は、代々の当主が権威を受け継ぐための神聖な場所とされてきた。


 壁一面に剣神の加護を象徴する紋章が刻まれ、厳かな静寂が満ちている。


 正面には、一段高い台座があり、三つの石階段。そしてその頂に、現当主、ジオルド・アースレインの姿があった。


 僕はゆっくりと歩み寄り、ひざまずいた。


「ヴィクター・アースレイン」


 父の声は枯れていたが、その威光はいまだ失われていなかった。


「汝は、我が子として生を受け、剣を持ちて試練を乗り越え、アースレインの名に恥じぬ戦果を得た。その者に、侯爵位を譲り渡すことに、異論なし」


 側仕えが、象徴となる銀の剣と家紋の印章を盆に乗せて差し出す。


 僕は剣を両手で受け取り、額に当てる。


「汝はこの名と共に、領地と軍権、騎士団、財政、民の命運すべてを担うものとなる。喜びもまた、苦しみもまた、すべてを」

「承知しております。……覚悟は、既に剣に刻みました」


 父が頷いた。


 玉座の前に用意された石盤に僕が歩み寄ると、そこには剣神の血統を示す古の誓約文が浮かび上がる。


 右手の手のひらに小さな切り傷を刻み、その血を一滴、石盤に落とす。


 淡い紅が紋章に吸い込まれ、周囲の空気が変わった。


「この瞬間をもって、アースレイン侯爵家、第十三代当主――ヴィクター・アースレインと定める!」


 父の宣言とともに、大理石の柱の間に設けられた聖鐘が打ち鳴らされる。荘厳な音が、王都の隅々まで響き渡っていく。


 扉が開かれ、外に広がるのは民衆の海。


 軍装を正したジェイ、エリス、ドイルたちが脇を固め、フレミアが静かに祈りを捧げている。


 僕は振り返り、父に深く一礼した。


 ジオルドは微笑んで、椅子に深く腰を下ろす。


「今日からは、お前の領地だ」


 その言葉が、重く胸に落ちる。


 民衆の歓声の中、階段を上り、僕は正統なる当主の座に腰を下ろした。


 視界の先、都の塔が朝日に照らされている。


 これより、すべてを統べる覚悟はあるか? 応えは、剣に刻んだ。僕は、アースレインを、そしてこの領地を手に入れた。


 ここからが、本当の戦いの始まりだ。


 相手は王族。奴らの思惑を暴く。


 継承の儀から数日が過ぎた。


 動乱は沈静化し、アースレイン家の庭園には久しぶりに穏やかな風が吹いていた。


 だが、平穏は一時のもの。僕が背負うべきものは、これからが本番だ。


 その最初の一歩として、今日、三人の名を呼ぶ。


 僕の側にいてくれた、最も信頼できる者たちだ。


「ジェイ・アルノルト。前へ」


 侯爵家から正式な男爵位と、アルノルトの姓を与える。


 白銀の陽光が差し込む大広間で、革の装束に身を包んだ男が、片膝をつく。無造作にまとめた髪、口元にはいつもの不敵な笑み。だが、その瞳だけは真剣だった。


「ヴィクター様、いかような命でも下されよ」

「お前に命じるのは一つだけだ。今後、アースレイン家の軍事・諜報を一手に担う軍師として、騎士団を再編しろ。指揮官としても、お前の才は必要だ」

「……重すぎるぜ。だが、期待には応えたい。ここまで来たんだ。もう傭兵じゃねぇ、あんたの軍師だ」


 ジェイは口の端を吊り上げ、立ち上がる。その背に風が吹き抜け、騎士たちがその姿に敬礼する。


「第二階位騎士団指揮官、および戦略参謀長として任命する。誓いの刻印に血を」


 短剣を手渡すと、ジェイは何も言わず、自らの掌に切り傷を刻んだ。


 彼の血が、刻印石に落ちる。


 次の名を呼ぶ。


「エリス・ファルネス。前へ」


 同じく男爵位とファルネスの姓を与える。


 深紅のマントを翻し、エリスが進み出る。魔術師らしい長衣の裾には新たな紋章が縫い込まれていた。


「私は魔術師として、ヴィクター様の力になるためにここまで来ました。命令を」

「今後、アースレインに仕える第一魔導官として、魔術戦術の整備、魔術師団の創設と指導を任せる」

「光栄です、当主殿。全魔力を尽くしてお応えします」


 エリスの声は凛としていた。


 炎のように燃えた瞳が、どこまでも真っ直ぐに僕を見ている。


「第一魔導官、および王都魔術師団筆頭として任命する。こちらも血を」


 彼女の指先から落ちた一滴の紅が、魔導石に滲んでいく。


 そして、最後の一人。


「ドイル・クライン。前へ」


 かつて、僕に反抗的な態度をとっていた執事が静かに歩み寄り、跪いた。


 僕の専属執事から、男爵位とクラインの姓を与える。


「ヴィクター様……いえ、新当主様。この身、命尽きるまでお仕えいたします」

「ドイル、お前には執政および筆頭執事の職を任せたい。家令として、政務・財務・人事を取り仕切り、僕の不在時は代理としての執行権も与える」

「……はは。お優しきお方にお仕えできるとは、まったくもって、冥利に尽きます」


 筆頭執事として、僕の代理を任せる。


 ドイルが、震えながらも刻印に血を落とした。


 静寂が落ちる。僕は、三人を見渡す。


 僕に手を差し伸べてくれた仲間たち。今ここに、アースレインの柱として、共に立つ者たち。


 僕は、玉座から一歩降りて、彼らの前に立った。


「……これで終わりではない。アースレインは、まだ再建の途上だ。力を貸してくれ」


 ジェイが肩をすくめて笑った。


「まったく、相変わらず大風呂敷だな」


 エリスがくすっと笑い、ドイルが目を細める。


「では、今後とも全力で支えさせていただきます、当主様」


 僕は、静かに頷いた。


 この瞬間から、アースレイン家は新たな時代へと進む。


 この国の真実を知るための歩みを始める



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