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第111話

《side:マリスティーナ・デルデ・アルゼンティス》


 王都アルゼンティスの玉座の間は、今日も変わらず荘厳で静かだった。


 だが、その静けさは、まるで墓所のような重苦しさを孕んでいる。


 私は銀のヒールの音を静かに響かせ、長い赤絨毯の上を進んでいた。薄いベールを被ったまま顔を上げず、首元の宝玉に微かに揺らぐ呪印を指先でなぞる。


「……戻りました、御前にて」


 誰もいないはずの玉座の間に、空気を震わせる声が返ってくる。


「遅かったな。……グレイスは?」

「敗れました。完全に。身体も、魂も、喰い果てられました。アースレイン家の継承は、ヴィクターへ」


 沈黙。


 だがその静けさは、次の瞬間には呪詛にも似た低い嘲笑へと変わる。


「……人の子ごときが灰の王の器を屠ったのか? 滑稽なものだ」


 玉座の背後、黒い帷が揺れ、そこから男とも女ともつかぬ声が漏れ出る。


「マリスティーナ。お前は我が契約者の一人だ。王家の末裔として選ばれた器だ。敗北の報告を、ただの情報と勘違いするなよ?」

「心得ております」


 私は深く膝をつき、首筋に浮かぶ灰色の紋章に指をあてる。それは王家の血に選ばれし者だけが持つ調律の印。そして魔と契約した証でもあった。


「お前の兄も、あのグレイスも、結局は器としては脆すぎた。所詮は貴族の戯言にすぎん」


 暗き帷の奥から、一対の紅い眼が覗く。


「……本命はまだ、消えてなどおらぬ」


 その声に、私はようやく顔を上げた。


「ですが、主よ。各地に忍ばせていた因子も、次々と排除されています。ラヴェンデル伯爵家の精霊は姿を消しました。シュバイツ侯爵家の悪魔も主人を食い。アースレイン家の灰の王は順調に育っておりましたが、今回の一件で消滅」


 一つ一つ、抑揚なく事実を告げるたび、背後の気配が苛立ちの色を濃くしていくのがわかる。


「愚か者どもめ……せっかく混血の調律計画を完遂間近まで進めたというのに」

「申し訳ありません。ですが、唯一の例外が存在します」

「ほう?」


 私はゆっくりと立ち上がった。


「……アースレインの新当主、ヴィクター。彼だけは、因子を受け入れてなお自我を保った可能性があります」


 一拍の沈黙。だが、その後に響いたのは愉悦に満ちた嗤いだった。


「おもしろい……! ならば、灰の因子を自ら喰らい、支配したと?」

「はい。彼は魔剣の力を使って、相手の力を吸い込む。第七段階に到達しつつあると見られます」

「ならば、この世界に再び王が生まれる。その器が整ったということだ。だが、それは厄介なことだ我々魔族よりも強い力を手に入れることになる」


 影が伸び、私の足元に蛇のようにまとわりつく。


 指先に冷たい魔力が触れ、私は呼吸を整えた。


「では、どう動かしますか? 終夜の儀を進めますか?」

「まだだ。王家が完全に手駒を失ったと思われてはならぬ。……次は白の計画を動かす」


 私は小さく頷く。


 白とは、魔ではなく光の因子。すなわち、聖なる力を利用した対抗因子計画。


 表向きは王国の宗教機構が主導する聖遺物計画と呼ばれている。


「フレミア・カテリナ。アースレインに近づいている聖女。彼女を引き金に」

「……聖女を?」

「彼女の祈りが神の器を覚醒させる。その時こそが、調律の終着点だ」


 声の主は、すでに未来の構図を描いている。


 私は視線を落とす。


 この国は終わる。けれど、それは崩壊ではない。変質だ。


 魔でも、神でも、人でもない何かに書き換えられる夜が、近づいている。


「……了解いたしました。私も次の段階へ移ります」

「王都での処理は任せたぞ、マリスティーナ。まだ、あの王族たちの中に生き残りがいる。血を絶やすな」

「はい、我が主」


 私は帷の奥にもう一度一礼し、背を向ける。


 玉座の間を出ると、まだ陽は高かった。けれど、私の中には、すでに太陽の色はない。残るは、灰と、闇と、滅びの調べだけ。


 アースレインが勝利したことで、ようやく盤面は整った。


 だが、それは始まりにすぎない。


 これより、神なき世界に神が降臨するのだ。


 白銀の髪に、赤い瞳をした魔族によって支配された王国は、滅びに向かう。


「こんな時にあの子がいてくれたらよかったのに」


 私は幼い頃に見た一人の少女のことを思い浮かべる。


 リュシア。


 私のたった一人の、過去の光。


 あの少女だけは私とは違う未来を望んだ存在だった。


 幼い頃、わずかな時間だけ共に過ごした彼女の瞳は、どこまでも透き通っていて、私のような濁りとは正反対だった。


 あの子が王家を捨て、今どこにいるのかわからない。


 この地獄に巻き込まれずに済んだと思う反面、すでに主との間に争いがあったはずだ。


 そして、リュシアは負けたのだろう。だけど、生きていることを願う。


 あのどこか皮肉な物言いが懐かしい。


 願わくば、二度と私の前に現れないで欲しい。


「もしも、もう一度私の前に姿を現すのなら、王家を終わらせる立場なのでしょうね」


 私は誰もいない廊下を歩きながら、この王国の滅亡を誰よりも実感していた。


 終わりは近づいている。


 だけど、それを知るのは限られたものだけだ。



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