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第112話

《side:リュシア》


 夜の静けさに紛れ、私は一人、書庫の奥の窓辺に腰掛けていた。


 月光が白く床を照らし、微かな夜風が薄衣を揺らす。


 胸の奥に巣くう異質な鼓動が、今日もまた規則的に脈打っていた。


 私は誰なのか……。


 その問いは、ヴィクターと出会ったあの日から、ずっと私を縛り続けてきた。


 魔族であり、知識を持つ私が力を失って、記憶をなくした。


 あのとき、私は名を呼ばれても応えることができなかった。


 けれど、ヴィクターが倒した魔剣を食して力が戻った。


 私の中で何かが蠢いていた。


 それは確かに、私の一部だったもの。忘れていた力。封じられていた存在。


 妖精を喰らった時、私は風を読み、森と語る術を思い出した。

 それは隠密で行動する体の使い方を思い出すようなものだった。


 悪魔の契約を喰らった時、私は嘘を見抜き、心を欺く術を思い出した。

 それは他者の心に入りこみ、服従の力を強めることになる。


 そして、灰の王。


 グレイスをヴィクターが討ち、その残滓を喰らった瞬間。


 私の中で、かつてのリュシアが目を覚ました。


 記憶が蘇ってきた。


 断片的に、霧の中から浮かび上がってくる。


 私は、北にいた。


 凍てつく大地、雪が常に降り積もる世界で。


 魔物と魔族、様々な魔の者たちがグツグツと鍋で煮るように集まって強さを競い合う場所で、私には兄がいた。


 名を思い出せない。けれど、その温もりだけは、今もはっきりと覚えている。


 兄はいつも私を背に庇い、氷狼や飢えた鬼獣と戦っていた。幼い私は、彼の背に隠れ、怯え、だが同時にその強さに憧れていた。


 私たちは人間ではなかった。


 獣に似た耳と、暗き瞳。


 魔族だった。


 異端の血を持つ兄妹。


 それゆえ、山の最果てに追われた。


 けれど、兄は言っていた。


「生き延びるだけが勝ちだ。力をつければ、いずれ……魔族は強くなる。俺たちはまだ子供なだけだ」


 兄は常に、何かを目指していた。


 人ではないが、人の中で生きられる未来を考えていた。


 私たちは、魔物を狩り、灰の花から魔素を採り、わずかな糧で命を繋いだ。


 傷ついた兄の身体を癒やし、彼は私に戦い方を教えてくれた。


 やがて成長した私たちは、北の大地を抜け出していた。その時にはかなりの強さを持っていて、王都にたどり着いた。


 兄は身なりを整え、王族の一人と仲良くなって、すぐに王家に近づいていった。


 いや、正確には、王家に仕える調律者と名乗る者たちと手を結んだ。


 彼らは私たちの力に目をつけた。


 異質なる血。


 魔を宿す身体。


 それを『器』と呼び、契約を持ちかけてきた。


 兄は躊躇いなく頷いた。


「人と共に生きる。向こうがこちらを利用するなら、こっちも利用してやればいい」


 私も頷いた。王都の空は広く、暖かく、あの北の吹雪よりも優しかったから。


 それが、すべての始まりだった。


 だが、記憶はここでまた断絶する。


 いつ、なぜ私は全てを失ったのか。


 兄は、今、どこにいるのか。


 そして、私は何のために、生かされたのかわからない。


 まだ力が足りない。


「リュシア?」


 振り返れば、扉の前に立っていたのはヴィクターだった。


 彼は相変わらず眠れぬ夜を過ごしているのだろう。


 剣の柄に手を添えたまま、黙ってこちらを見ている。


 深淵の底にいるような真っ黒で光を映さない瞳。

 誰も信用しない冷たい心。

 全てを切り裂く刃。


 本当に心地よい。


 ヴィクターからは、生まれ故郷である北の大地と同じ香りと、雰囲気がする。


 だからこそ側にいることが何よりも安心する。


「なにを考えていた?」

「……少しだけ、過去を思い出していただけ」

「過去を? 記憶が戻ったのか?」

「少しだけよ。私が北の大地で生まれたっていう記憶」


 ヴィクターは、私に記憶がないことを知っている。


 私は微笑む。そして確信する。


 彼の傍にいたからこそ、私は力を取り戻せたのだ。


「そうか、ならば今よりも力を取り戻せば、全てを思い出せるのかもな」

「ええ、ご主人様のおかげよ。お礼に私を好きにしてもいいわよ」

「僕にそのつもりはない」

「アハっ! こんな絶世の美女を前にして、そんなことをいうのはご主人様だけよ」


 私が喰らった全てが、彼に還元されているのだと。


 記憶と力が戻るほどに、私は危険な存在になる。


 魔族の力と、王家に選ばれた器としての血。


 もし、私が兄と再び接触すれば、何かが始まる。


 けれど、それでも。私は、今はヴィクターの傍にいる。彼の剣となり、影となり、たとえその先が滅びでも。


「……ありがとう、ご主人様」

「ん?」

「全部、あなたのおかげよ。私は今、自分を思い出している。力も少しずつ戻ってきたの」


 彼は小さく眉をひそめて、答えなかった。


 けれど、私はそれで十分だった。


 兄と歩いた道の先に、この場所があったのなら。


 私は、何度記憶を失っても、きっとまたこの人と出会うのだと思う。


「僕は自分の好きに生きるだけだ」

「アハっ! ご主人様はそれでいいのよ。私が勝手にあなたについていくのだから」


 まだ私は自分の目的がわからない。


 だけど、誰かに負けて記憶と力を失った私は、全てを取り戻す。


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