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第114話

 結婚式の準備は、静かに、そして迅速に進められていた。


 屋敷の中では従者たちが慌ただしく動きを見せている。


 白金の刺繍が施された礼装、聖女の象徴である金糸のヴェール、祝福の鐘を鳴らすための従騎士たち。


 すべては形式にすぎないが、王家と釣り合うだけの格式を示すためには欠かせない。


 形式に意味はない。ただ、意味があると思わせる力があるだけだ。


 僕は窓際で礼装の採寸を終えた後、黒の外套を羽織って夜の風に身を晒していた。月の光が差し込む執務室の奥には誰もいない。


 この屋敷の空気が変わったのは、当主になってからだ。


 家中が息を潜めるようになった。


 僕の命令に異を唱える者はいない。恐怖によるものではない。理解によるものだ。剣を抜けば、誰よりも早く、誰よりも深く斬る。


 それが、このアースレイン当主として生きるということだ。


 未来の僕は家のことも、人のことも見てはこなかった。


 だが、冷静な目で家を見て、人を見るようになれば、自分がどれだけのものを置き去りにしてきたのか見えるようになってくる。


「ご主人様。こんな夜に、外気に当たるのが好きね」


 執務室から伸びるテラスで物思いに耽っていると、鈴を転がしたような声が背後から届く。


 振り返らずともわかる。リュシアだ。


 黒髪の影が、静かに僕の背後に寄ってくる気配。


 風もないのに、彼女の衣は揺れていた。まるで、重力に抗うように、あるいは浮いているかのように。軽やかな足取りは、彼女自身が力を取り戻しつつあることを気配で告げている。


 リュシアは出会った時よりも、その妖艶さや纏う雰囲気が変わっている。


「明日が式だ。お前も準備を進めておけ」

「ええ。私はどんな役でもこなせるもの。たとえば、花嫁を食べる怪物の役でもね」


 その声に、僅かに棘があった。


 僕は肩越しに視線だけを向ける。


 リュシアの目は、夜の帳と同じように深く、そして不穏な色を湛えていた。


 彼女の視線が、まっすぐ僕の瞳を射抜いてくる。


「……ご主人様の瞳、前よりも黒くなった気がするわ。まるで、光を呑み込んでいくみたいに」


 彼女は笑うように口元を歪める。けれど、目はまったく笑っていなかった。


「ねえ。フレミアを利用するのかしら?」


 その問いは、深海の水圧のように、静かに、そして重たく響いた。


 僕は表情を変えない。否定も肯定もしない。


「お前の質問はいつも曖昧だな」

「ええ。でも、言葉を濁すあなたも、いつもずるいわよ。ご主人様は、誰かを利用するつもり?」

「僕はいつでも自分のために動いている。真相を突き止めるためなら、人を殺すことも、利用することも厭わない」

「アハっ! さすがはご主人様ね。仲間だと慕う者も利用するのね。いいわ〜それでこそご主人様」


 リュシアは僕の横に立つと、同じように夜の景色を眺めた。


 夜空には雲が流れ、月がその隙間から姿を覗かせる。だが、その光は弱々しく、まるで誰かの未来のように不確かな明るさだった。


「フレミアはあなたに本気よ。アースレイン家とカテリナ家の結びつきだけじゃない。あの子は……あなたを信じてる」


 リュシアの言葉に、僕は「ふっ」と笑った。


「バカにするなよ。リュシア」

「えっ?」

「フレミアは僕の闇を愛した。そして、僕を受け入れた。僕が選んだ伴侶だ。利用されることも承知している」


 アリシアのように利用する関係であり、アリシアとは絶対的な違いがそこには存在する。


「信じているから、利用されても構わないと思っている。なら、利用しない理由はない」


 そう答えると、リュシアの気配が、わずかに冷たくなった。


 だが、それ以上、彼女は何も言わなかった。


 その沈黙の奥で、何かが蠢いている。かつての記憶か、あるいは魔族としての本能か。


「……いずれ、彼女があなたの光になるのか、それとも引き金になるのか。私にはわからないわ。ただ……」


 彼女は振り返り、僕の胸元に手を伸ばす。


 冷えた指先が、服に触れた。


「……その時が来たら、私は、あなたの盾にも、刃にもなる。例え相手があなた自身”あっても」


 その言葉には、忠誠と、それ以上の執着が混じっていた。


 リュシアは僕に唇を重ねる。


 そのまま誘うように部屋へと誘った。


「明日は晴れるかしら。血の香りが強くなるのは、あまり好きじゃないの」

「魔族が血を嫌うのか?」


 暗い部屋の中で、白い髪と魔族の角が異質さを放ち、赤い瞳が月明かりで照らされる。


「報酬をくれてやる」

「アハっ! 明日からあなたはフレミアのものね」


 利用するか、利用されるか。


 その境界線など、とうの昔に曖昧になっている。


 ただ、一つ言えるのはリュシアと僕は運命共同体であり。


 フレミアは僕の伴侶であるということだ。


 剣を振るうように冷静に、地を選ぶように慎重に。


 だが、選んだ以上は、あらゆる結果を引き受ける。


「僕はまっすぐに目的に向かって突き進むだけだ」


 僕は、王家に抗う存在として歩む。


 その道に、祝福など存在しないのかもしれない。


 だが、必要な仲間と、信頼する伴侶がいる。


 あとは勝利だけだ。


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