《sideマリスティーナ》
私は、玉座の間の片隅に立ち、父王が息を漏らすたびに、その音が国の運命を告げる鐘のように聞こえていた。
王は、もはや自らの意思で言葉を紡ぐこともできない。だが、誰にもそれを明言させないだけの「体制」が、この王都を覆っていた。
「マリスティーナ殿下、シュバイツ家より使者が到着しました」
従者の声に、私はゆっくりと振り返った。
城の深奥、王家直属の応接室へと向かう途中で、私はドレスの裾を指先で摘み上げる。
銀の燭台が、私の影を壁に伸ばす。まるで、何かに囚われているような、籠の中の猛獣のような影だった。
応接の扉が静かに開かれると、そこにはシュバイツ家の若き代表、ミレオ・シュバイツが、余裕の笑みを浮かべて腰掛けていた。
銀縁の眼鏡に、理知の光。そして、その奥に見えるのは、政治という盤面を遊戯とする者の眼だ。
「これは王女殿下、お招きいただき光栄です」
「……ええ、ようこそ。ミレオ。今日は、遊びに来たわけではないのでしょう?」
「もちろん。今日は契約の話をしに来たのです」
私は椅子に腰を下ろす。扉が閉じられた瞬間、場に満ちていた形式の空気がすっと引いて、残ったのは本音だけになった。
「カテリナとアースレインが手を組んだ。あなたは、どちらの側に立つの?」
問いかけると、彼は静かに笑って頷いた。
「我々シュバイツ家は……王家と手を結ぶ用意がある。条件次第ではね」
「条件? あなたは取引のつもり?」
「違いますよ。選別です。今、王国という盤の上では駒の並べ替えが始まっている。我が家は、その序列に影響を与えられる立場にいる。だからこそ、正しい王を選びたい」
言葉に棘はないのに、冷たい水を浴びせられたような気分になった。
貴族とはどんな人間でも、権力を欲する。
研究者だと思っていた。ミレオ・シュバイツであっても序列を気にするのだ。
「つまり、ヴィクター・アースレインではなく、私たち王家を支持する……そう明言してくれるのね」
「ええ。ですが一つ条件があります。白因子計画を、王家が明確に主導し、魔族への対処と同時に、内部の血統統制にも踏み込む。それが、私たちシュバイツ家が求める未来です」
私は、グラスの縁をゆっくりと指でなぞった。
「恐ろしいことを言うのね。血の統制……それは、旧い時代の発想よ。あなたは結局研究者として、それを研究対象にしたいということかしら?」
「はい。だからこそ、未来に必要だと考えます。魔族の因子は、野放しにすれば国家を滅ぼす。すでにアースレイン家の新当主は、そうした因子を妻に抱え、民衆の歓声を味方につけている。……これを見逃せば、王家に明日はない」
私は、喉の奥で笑みを噛み殺した。
ミレオは魔族を理解している。
ヴィクターを……そして、その背後にいるフレミアや見ている。
そして、王家の秘密を知っているようだ。
神話のように現れ、民を魅了する彼らの存在が、王家という「古い血統」の正統性を揺るがせることを。
「いいわ。私が王家を代表して、その契約を受けましょう」
「それを聞いて安心しました」
「でも、ミレオ。一つ忠告しておくわ。私たち王家も、あなたたちシュバイツ家も、本当の意味で国を動かすことはできないの。動かすのは、もっと曖昧で、滑りやすくて……手を離せば簡単に転げ落ちてしまうものよ」
「たとえば、信仰や愛国や、物語……でしょうか?」
彼の的外れな言葉に、微笑んだ。
「あなたは全てをまだわかっていない。先に結末を選ばねばなりません。アースレインではなく、王家が勝つという物語を」
私は頷いた。
「……ならば、始めましょう。今夜から、物語を終わらせる準備を」
ミレオ・シュバイツは、私の言葉に同調するように微笑んだ。
♢
父が逝ったのは、月が最も高く昇った夜だった。
玉座の間ではない。ただの寝台の上。王の証たる剣も、冠も、そこにはなかった。あったのは、荒く細くなった呼吸と、静まり返った空気だけ。
私は、誰もいないその部屋にただ一人、父の枕元にいた。
「……父上」
返事はなかった。目は開かれていても、そこに光はない。
ただ、わずかに震える唇が、なにか言葉にならないものを紡ごうとしていた。けれど、それは叶わなかった。
そのとき、王ではなく、一人の父が、最後の時間を迎えたのだと感じた。
私はその手を取った。血の気が引き始めた指先に、自分の温もりを重ねながら、そっと囁いた。
「大丈夫。私が、受け継ぎます」
答える者はいない。
それでも、私はそう言わねばならなかった。王として、娘として。
父は、最後まで一言も発さずに息を引き取った。
わずかに落ちたその肩を見て、私はようやく目を閉じた。涙は出なかった。流してはならないと思った。
……王家は、崩れた。
だが、私は崩れない。
玉座を空けてはならないのだ。
その夜、私はまだ温もりの残る亡骸に背を向け、そっと鐘を鳴らすように、継承の儀を告げる命を出した。
これより、王国は変わる。
王亡き後に現れるのは、誰だ?
アースレインか、我が王家か。
それを決めるのは、もうすぐ始まる戦である。