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第117話

《sideマリスティーナ》


 私は、玉座の間の片隅に立ち、父王が息を漏らすたびに、その音が国の運命を告げる鐘のように聞こえていた。


 王は、もはや自らの意思で言葉を紡ぐこともできない。だが、誰にもそれを明言させないだけの「体制」が、この王都を覆っていた。


「マリスティーナ殿下、シュバイツ家より使者が到着しました」


 従者の声に、私はゆっくりと振り返った。


 城の深奥、王家直属の応接室へと向かう途中で、私はドレスの裾を指先で摘み上げる。


 銀の燭台が、私の影を壁に伸ばす。まるで、何かに囚われているような、籠の中の猛獣のような影だった。


 応接の扉が静かに開かれると、そこにはシュバイツ家の若き代表、ミレオ・シュバイツが、余裕の笑みを浮かべて腰掛けていた。


 銀縁の眼鏡に、理知の光。そして、その奥に見えるのは、政治という盤面を遊戯とする者の眼だ。


「これは王女殿下、お招きいただき光栄です」

「……ええ、ようこそ。ミレオ。今日は、遊びに来たわけではないのでしょう?」

「もちろん。今日は契約の話をしに来たのです」


 私は椅子に腰を下ろす。扉が閉じられた瞬間、場に満ちていた形式の空気がすっと引いて、残ったのは本音だけになった。


「カテリナとアースレインが手を組んだ。あなたは、どちらの側に立つの?」


 問いかけると、彼は静かに笑って頷いた。


「我々シュバイツ家は……王家と手を結ぶ用意がある。条件次第ではね」

「条件? あなたは取引のつもり?」

「違いますよ。選別です。今、王国という盤の上では駒の並べ替えが始まっている。我が家は、その序列に影響を与えられる立場にいる。だからこそ、正しい王を選びたい」


 言葉に棘はないのに、冷たい水を浴びせられたような気分になった。


 貴族とはどんな人間でも、権力を欲する。


 研究者だと思っていた。ミレオ・シュバイツであっても序列を気にするのだ。


「つまり、ヴィクター・アースレインではなく、私たち王家を支持する……そう明言してくれるのね」

「ええ。ですが一つ条件があります。白因子計画を、王家が明確に主導し、魔族への対処と同時に、内部の血統統制にも踏み込む。それが、私たちシュバイツ家が求める未来です」


 私は、グラスの縁をゆっくりと指でなぞった。


「恐ろしいことを言うのね。血の統制……それは、旧い時代の発想よ。あなたは結局研究者として、それを研究対象にしたいということかしら?」

「はい。だからこそ、未来に必要だと考えます。魔族の因子は、野放しにすれば国家を滅ぼす。すでにアースレイン家の新当主は、そうした因子を妻に抱え、民衆の歓声を味方につけている。……これを見逃せば、王家に明日はない」


 私は、喉の奥で笑みを噛み殺した。


 ミレオは魔族を理解している。


 ヴィクターを……そして、その背後にいるフレミアや見ている。


 そして、王家の秘密を知っているようだ。


 神話のように現れ、民を魅了する彼らの存在が、王家という「古い血統」の正統性を揺るがせることを。


「いいわ。私が王家を代表して、その契約を受けましょう」

「それを聞いて安心しました」

「でも、ミレオ。一つ忠告しておくわ。私たち王家も、あなたたちシュバイツ家も、本当の意味で国を動かすことはできないの。動かすのは、もっと曖昧で、滑りやすくて……手を離せば簡単に転げ落ちてしまうものよ」

「たとえば、信仰や愛国や、物語……でしょうか?」


 彼の的外れな言葉に、微笑んだ。


「あなたは全てをまだわかっていない。先に結末を選ばねばなりません。アースレインではなく、王家が勝つという物語を」


 私は頷いた。


「……ならば、始めましょう。今夜から、物語を終わらせる準備を」


 ミレオ・シュバイツは、私の言葉に同調するように微笑んだ。


 ♢


 父が逝ったのは、月が最も高く昇った夜だった。


 玉座の間ではない。ただの寝台の上。王の証たる剣も、冠も、そこにはなかった。あったのは、荒く細くなった呼吸と、静まり返った空気だけ。


 私は、誰もいないその部屋にただ一人、父の枕元にいた。


「……父上」


 返事はなかった。目は開かれていても、そこに光はない。


 ただ、わずかに震える唇が、なにか言葉にならないものを紡ごうとしていた。けれど、それは叶わなかった。


 そのとき、王ではなく、一人の父が、最後の時間を迎えたのだと感じた。


 私はその手を取った。血の気が引き始めた指先に、自分の温もりを重ねながら、そっと囁いた。


「大丈夫。私が、受け継ぎます」


 答える者はいない。


 それでも、私はそう言わねばならなかった。王として、娘として。


 父は、最後まで一言も発さずに息を引き取った。


 わずかに落ちたその肩を見て、私はようやく目を閉じた。涙は出なかった。流してはならないと思った。


 ……王家は、崩れた。


 だが、私は崩れない。


 玉座を空けてはならないのだ。


 その夜、私はまだ温もりの残る亡骸に背を向け、そっと鐘を鳴らすように、継承の儀を告げる命を出した。


 これより、王国は変わる。


 王亡き後に現れるのは、誰だ?


 アースレインか、我が王家か。


 それを決めるのは、もうすぐ始まる戦である。

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