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虹色の塔 2

 駅までタクシーに揺れていた。これを食べたら太ります、これを食べなかったら痩せます……ありふれた広告に載ったフレーズが、頭に浮かんでは消えた。唾液を飲んだ。残り湯みたいに口の中にある。舌が動いている限り、私は唾液を確認できる。石になった女じゃないし。栄養失調で動けなくなった女でもないし。目を閉じて、朝まで息をしていることが奇跡みたいだと思った。空っぽなんだ。体が、胃の中が、口の中が。どうして、と満腹の自分が責め立てる。

 運転手のおじさんが言う。女の子一人で大丈夫? 笑顔で答えた。大丈夫です。OLじゃないけれど、一人の女性。証拠に、ちゃんと化粧して出かけてる。鏡を見て、笑顔くらい作ることもできるよ。

 おんなのこひとりでだいじょうぶ?

 リピートした。大丈夫って、もう何度言い聞かせたのかわからなくなった。

 地図にない街だ。一人旅には、ぴったりだと思っている。美味しいお米も、焼きたてのパンも、豚を叩き潰して焼いたロースかつも、鳥の羽を剥ぎ取って焼いたチキンも、当分の間口にできない。でも、足を伸ばしたんだ。窓の向こう、ただ焼けた大地が広がってるけど、この先に行きたい場所がある。狐色の地の果てにね。

 今朝、布団から起きて、部屋にガムしかないことに気付いた。何も食べるものがない。追い出された孤児と同じ。きっと三歳の頃の方が、よく噛んでおいしくお腹いっぱい食べてたよね。

 話す相手もいない。こんな私って、かわいそうなの? ねえ、どうなの? めんどくさいってわかってるよ。だからって、ネズミを素手でつかんで焼いて食べる気ないの。ネズミを素手でつかんで焼いて食べる気ないの。

 ほんとは、お腹いっぱい食べたいけどね。お金ないんだ。食べる気ないなんて、口が裂けても言えないよ。ほんとは、焼きたてのステーキ、頬張りたいからね。

 ガムも飽きた。甘味があるから、少しは空腹を忘れることができる。今、私の胃の中ってどうなってるんだろ。一番綺麗な状態? 体のこと、よくわからない。

 起きたばかりの布団がロフトにある。ちゃんと晴れの日は干してるよ。そのあと掃除機で吸い取って、ほこりやダニを退治してる。お腹を空かせたまま布団に戻って目を閉じれば、安らかに眠れるかもしれない。噛み殺されても、何の栄養のない私の体。ダニくんたちは、美味しくないでしょ。そんなのわかってるよ。

 近所の小学生が登校してた。朝、木造アパートの中で空腹のお姉さんがいるなんて、子供たちは知らないし、知るわけない。あの子たち見て戻りたいって思う? 戻れないって思う?  

 観覧車が鉄の輪じゃなくて、チョコレートで出来てたら、私はどんなモンスターよりも破壊が上手いと思う。板チョコが割れる瞬間とか、ブラウニーが割れる瞬間とか、いくらでも思い出せるけど、それで胃の中が満たされて、脳に糖分が入るわけじゃない。だけど描いてみるんだ。映画館の予告みたいに。私は眺めているだけ。暗闇で、食べたいと抑えながら。 

 遊園地が閉鎖して二十年になる。バスが通り過ぎて、自動車が通り過ぎて、地図からも消えて、放り出した子供部屋みたいに大人を困らせてる。 

 ロフトにいると、時間が止まったみたいに思う。1Rの部屋で、床と離れている。梯子じゃないとたどり着けない。布団の中で仰向けのまま朽ち果てて、腐敗が進んだら、ピンクの下着も黄ばんじゃうだろうな。捜査員の男性にも、手間をかけると思う。ごめんなさい、何も食べるものなかったんです。部屋を綺麗にしてるから、ネズミだって出てこないんです。たんぱく質が足りなくて、足りなくて、母からの連絡も途絶えて、友人の笑顔だけでご飯は食べられなくて、一粒のガムだけが残ったんです。ごめんなさい、惨めな女子でお手数おかけします。

 観覧車がチョコレート味なら、後ろの塔だってチョコレート。夢にまで出てきた塔だから、大好きなチョコレートに決まってる。

 そうだ。小学校の遠足の日に、クラスの男子が持ってたお菓子と似ている。あれと外観が重なって見える。一本だけもらったんだ。あげるって言われて。私が昨日までナプキンを取った右手で塔の扉を抉じ開ければ、なんでも食べさせてくれる王子様がいて、お姫様抱っこしてくれる。そう信じてる。

 初めて部屋に来た日を覚えてる。窓ガラスが明るく見えた。確か携帯で写真を撮った記憶がある。ほら、ちゃんと残ってる。朝日が差し込んで、フローリングに反射している。狭いけれど、明日からの学校が楽しみだった。

 母から仕送りもらって、父さんも将来心配してると言われても空腹のままだった。どうして。猿よりも食べてない。食べたいのに、マネーがないんだよ。それを少ない友人に伝えることが出来なかった。どうして。きっと頑丈な壁でもあるんじゃない? 板チョコで出来た、甘い壁が。ホワイトムースで塗った、甘い壁が。そうだよ、そうじゃなきゃおかしい。私に投げ銭してくれる人なんていないし、部屋を訪れる人もいなくなった。友人はいたんだよ、たぶん。でも私が外に出なくなってからは、段々メールも少なくなった。これも気遣いなのかな。仲のいい友達だって、痩せてく体、見たくないと思う。裸でコップを持って街に立てば、少しは振り向く誰かがいるかもね。

 こんなことするくらいなら、砂漠の果てを目指す。文句ある? 誰も文句ないでしょ? そう思うでしょ? 思わない? さあ、今すぐタクシー呼んでGO。ロフトに寝てるよりはいいよ。文句ないでしょ。

 目的地に着くまで、ペットボトルを開けないことに決めた。喉が渇いても、渇いても、キャップを開けない。タクシーのドアが開くまで口にしない。そう決めた。

 タクシーのおじさん、塔について話してくれた。もう誰も行かなくなって何年も経つけど、窓からいつも見えて不気味だよ。世界にどれだけ無人の塔があると思う? あれも建ってるだけだからね。囚人が押し込められてるとか、噂なんか消えてるけど。君は女の子なのに、勇気あるよね。おじさん、ちょっと心配。途中で降ろすわけに行かないから、送るけど。

 私は、何も答えなかった。

 父が家族のために会社へ向かった光景。遠い場所に大切に保管している。まだ幼稚園だったけど鮮明に思い出せる。同じ自分。遠い自分。地面を走るタイヤの音が、思い出を、子供時代を削って、私を砂の楽園へと連れてゆく。

 手のひらを見つめた。窓からの陽射しが当たっている。みんなどこかにいる。焼きたてのパン、カレーライスの香り。夕暮れを歩くと、それのおかげで懐かしい気分になったっけ。

 いつも歩くことはできてた。食べたいじゃなくて、胃に入れたい。お米や、パン。それにゆでたてのカルボナーラ・スパゲッティ。きっと美味しく胃の中に入れたはず。

 車の走る音しか聞こえない。私に気を遣っているのか、ドライバーのおじさんは何も話さなくなった。

 夢の中では観覧車がまわっているんです。子供たちを乗せて、まわっているんです。つい最近まで、跡があったと思うんです。一度は行ってみたくて、お腹が空いてるけど行ってみたくて。一人で大丈夫だと思うんです。どうせ誰もいないですから。

 説明する力がなかった。コンクリートを擦る音に砕かれた気がした。タイヤが砂漠へと向かう。私は軽くなった肉体でシートに乗っている。窓から春の風が入れば、吹き飛ばされてしまうくらい。

 おじさん、サンドイッチくれる? なんにも食べてないんです。

 虚ろな目が、今頃バックミラーに映ってる。ごめんなさい。砂漠の色より薄い顔つきでごめんなさい。

 君、大丈夫? まさか塔から飛び降りる気じゃないだろうね。塔から飛び降りる気じゃないだろうね。

 耳をふさいだ。寝台列車であれば、夜明けの街が広がって、星たちの瞬きを見る。私はタクシーに揺れている。砂色に夢中だ。舌が渇いても、到着するまで何も飲まないと決めている。手のひらは汗で濡れて、首筋にも汗が吹き出ている。ハンカチでぬぐった。ペットボトルの水が車の振動で揺れている。

 胃があるのかどうか、わからなくなった。先週まで、炊き立てのご飯や、レンジから出した唐揚げ、ラーメン、杏仁豆腐が入ってたのに。冷たいウーロン茶の飲み口にキスをしたのに。あれは、私だったと思う。そうでしょ、私だった。小学校の給食、お母さんのカレーライス、おばあちゃんからもらう缶入りのドロップス。セーラー服で朝、鏡の前を独占してた時代。

 食べてたよ。あの時と同じように食べればいいんでしょ? 汗でいっぱいの手に、万札があればそうしてるよ。

 お金を払うと(これ、食費じゃないよ)、おじさんは優しい目で「気をつけて」と言った。父と同じくらいの年齢。何もしゃべらない私に、最後まで付き合ってくれた。さよなら。これで一人になれる。


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