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N氏の休日 人妻ゆきの挑戦 8

 ゴンザレスは雨の日になると、必ず道にできた水溜りを覗く癖があった。自分の顔を見ては不適な微笑みを浮かべる瞬間、世界の憂鬱が止まる、気がしている。

 仕事は言うまでもなく原稿を読むことだった。日々送られてくる原稿を精読し、時に退屈で目を閉じる。荒れ果てたデスクではなく、驚くほど綺麗に整頓されたデスクの上で目を通す。素晴らしい作品と褒めるのは決して社交辞令ではない。才能の片鱗とは、飛んできた桜の花と同様、鼻息で去るにはあまりに惜しいのである。親指で押さえて、このまま印刷に持っていくには充分の出来だ、とまずは宣言してみる。

 そして一言。「あなたはやっていけます」

 差し出したその手に、微笑んだNの答えが返ってきた。グラシアスという名の握手である。

 かくしてアシスタントの面接当日、Nとゴンザレスの二人は編集部で待機していた。ちょうど面接に訪れる女子大生を、優しく、時には親戚の伯父さん目線で見つめる人事の顔だった。さて、誰にお祈りメールを送ろうか。スカートの長さ、胸の大きさ、脚の肉付き。それに現代女性らしく、男性の前で話すには充分の度胸と愛嬌、振る舞い、そのすべてを万遍なくチェックしようと、ドアの向こうを見つめている。

「本日は、よろしくお願い致します」

 オフィスに訪ねた女性こそ、春野ゆきであった。完璧なメイクから出る言葉に説得力はなかった。性的なサービスを施すわけではないのに、午後の麗らかな日差しの下、なぜか卑猥に聞こえるのだった。

「こちろこそ、よろしく」

 ゴンザレスの目は血走っていた。野うさぎを丸呑みする野獣そのもので、服の下の下着を見ようと必死に見える。対照的にNは冷静だった。というより、ただ陰気である。

「こちらがNさん。本日、課題に選んだ短編小説の作者です」

「春野さん」

 Nは言った。「女性らしく読んでください。私からは以上です」

 春野の顔に変化はなかった。若く、美しいアジア人女性の一人として、男性二人の前で女性らしく息を呑んでいた。面接に焦りは禁物だった。何人かの彼氏も入っただろう一人暮らしの部屋には、しばらく戻れそうにない。

「私が教師のパートを読みますから、春野さんから始めてください」

 Nは原稿に目を通した。 

〈先生がそう言うから、私のスカートはいつもめくれてる〉

 春野が冒頭の一文を声に出した瞬間、Nは間違いないと心の中で叫んだ。春野ゆきはミロのヴィーナスではなく、一人のアジア人女性だ。股を開き、両手を仰ぎ、汗だくで年上男性の手に抱かれる東洋の不倫妻、ではない。

 ドアの向こうに消えた女性の背に、〈採用〉の二文字が浮かんだ。スーツではなく、ビキニなら、もっと鮮明に浮かび上がったかも知れない。海で焼いた小麦色の肌の上に、シールで隠した跡を残すことも可能だった。そうだ。キャンペーンガールとして、これからビキニ審査を始めようか。

「素晴らしいです。彼女」

 Nは言った。採用である。



 春野がアシスタントとして働き始めると、オフィスは華やかになった。編集長ゴンザレス後藤の下、入れ替わり作家が原稿を届けに来る。それを最初に受け取る、あるいは届いたメールから原稿をプリントする。春野は笑顔を絶やさず、仕事をこなした。幼少の頃より、家で料理を作ったり、掃除をしたり、庭の植物に水をやったりする母親の光景を眺めてきた春野は女性の役目を充分に理解していた。無駄口を叩かず、奉仕する。父の帰りを毎晩待つ、自分の母こそ理想だと信じてきた。

 面接時にいた新人作家、Nの姿を時々目に入れても、変わらず笑顔で対応し、自分なんてアシスタントだからと話す機会を放棄していた。本当は、あの小説について、人物について、もっと時間をかけて話してみたい。珈琲を飲みながら、文学や音楽、その他、編集という仕事について、Nともっと話したい。春野は声を押し殺した。母なら、同じく仕事に集中するだろう。飲み会で父の帰りが遅くなっても、肉じゃがを作って待っていた。近所のママさんに陰口を叩かれても、豚キムチをこしらえて待っていた。愚痴一つこぼさず、夫の帰りを待っていた。

 さて、作家Nは編集部を訪れたばかりである。

「春野さん」

 寡黙ではあるが機知に富み、時折穏やかな声で名前を呼んでくれる。ちなみに、Nというペンネームの由来は、「スパイっぽい」からという。ほら、ジェームズ・ボンドの上司もMだしさ。

 と、映画青年そのものによる口調もまた、春野を余計にときめかせた。面接時に朗読した小説について、聞きたかった。

「あの、Nさん」

 元来の引っ込み思案が災いして、プロの作家に何も聞けないまま、時間だけが流れてゆく。これではいつになっても姓が変わらない女子だ、と嘆いてみる。左手には指輪がない。面接当日の朝、自らの手で外したのだ。おかげで薬指は軽くなった。いつもありがとう。Nの口から確かにそう聞いた瞬間、春野は涙をこらえた。男性からの励まし。それは多くの働く女性が夢見る魔法の言葉に違いない。オーディション時に詠んだ一文、〈先生がそう言うから、私のスカートはいつもめくれてる〉

 何度読み返しても、淫靡な匂いが充満していた。

 あとは指輪を外した理由を考え、説明すればいい。例えば「仕事の時は外しているんです」あるいは「マリッジ・リングなんか忘れます」重要なのは既婚である事実を認め、輝ける笑顔を振り撒いて従事することだった。給料日前日の主婦と同じく、春野の頬は緩みっぱなしであった。合言葉は、〈三歩下がって二歩下がる〉完璧である。



 ここ何日か天候に恵まれているせいか、編集長は得意の水溜り覗きができなかったらしい。どんなに寒い朝でも、水に映る自分の顔色を確認しては、この世界の声を聞く。反対側にはブラジル人がいる。サンバのリズムと、美味しいコーヒー。美女たちの笑顔。覗き込んでみると、友達になれそうな人々や、サッカーの観客までも見えてくるという。雨に濡れても平気だった。学校帰りの子供たちに、怪しい人物として見られても平気だった。雨が水の上を打っている。いくつもの輪ができて、月面のクレーターに見えてくる。ゴンザレスは言う。子供たちと同じ年のころから、ずっと水溜りの光景が大好きだった。なぜかは僕にもわからない。手を伸ばせば、誰かが握ってくれる。そんな気がしていたんだ。鏡よりも透明な水に夢中だった。世界の住人が、遥か彼方で笑っている。みんな友達。僕だって、友達になれると信じたよ。すべてを吸収して、灰色にしている。大人になった今でも、水の揺れに惹かれるんだ。

 ゴンザレスは微笑んでいた。N曰く、「フェルナンド・バレンズエラのボールを受ける少年みたい」

明るい瞳だった。まるでグローブを右手にはめ込む野球少年のように。バレンズエラは元ロサンゼルス・ドジャースの左腕エースである。メキシコ人の血が流れる編集長にとって、憧れの選手だったわけである。

「カーク・ギブソンの逆転ホームラン、僕は現地で見ているんだよ。こりゃワールドシリーズ制覇するねって思ったんだ」

 誇らしげである。

「いよいよ明日、創刊だよ。本当にみんな、よくやってくれた!」 

 かくして新文芸誌『私、二人の子供を産み分けるために、旦那様と裕福な友達を使ったはいいけれど、その感情と甘い判断が、いつまでも尾を引いて、新たなる生命の誕生に後悔したくないと決意した、ある日の夜の戦慄について』は、創刊号を翌日に控えていた。

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