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N氏の休日 人妻ゆきの挑戦 9

 ところ変わって卓球室。またの名をレストルームと呼ぶ。

 編集部の一室、誰もが使えるよう卓球台を置こうと提案したのは、他でもないNであった。隣で編集長が赤ペンを握る間、ひたすらピンポンを繰り返す。たまに来客を交えて対戦し、束の間のゲームの行方を競い合うのである。終わらないゲーム。バス遠足の行き、修学旅行の電車内、退屈な自習時間。気の合う仲間がいれば成立するこの遊びは、時代が変わっても決して色褪せることがなかった。

 さて元卓球部のNが黙っているわけがない。原稿に行き詰ると、必ず朝からラケットを握り、華麗なるステップを開始。およそ二十年ぶりに勝負の火ぶたを切るのであった。

 ラケットを構え、眼光鋭く、ラリーで数々の伝説を作ったこの男、もはや聞く耳を持たない。不動のエースではなく、いぶし銀が光る技巧派にふさわしい幕開けだった。お題は世界の絶景。相手の春野は固唾を呑んで球の行方を捕らえようとしている。一球たりとも見逃さない目は、お互い真剣だった。

「グランドキャニオン!」

「渋谷スクランブル!」 

 球は網にかかった。何も言えなかったためである。このように山手線ゲームは、瞬時の判断力と記憶力、豊富な語彙がどうしても必要だった。長年、ゲームからのブランクが災いし、Nは自分で言う答えが出てこない。

 春野に焦りが見えた。まるでゴムの装着に手間取っているようだ。隙を見せ、戸惑いを隠せずにいる。二人だけのゲームへの重圧が、こんなにおおきいなんてしらなかったわ。

 Nはラケットを構えた。

 決まった。Nのスマッシュは相手の胸元をかすめ、球は背後に消えた。春野は目を丸くしている。床に飛び跳ねる球は、独裁者の首にも見えた。今なら、野良犬がくわえて走り去っても何も言えない。あるいは転がる真珠の如く、誰かの懐に納まるには充分だった。

「結婚しているんです」

 この日、春野の口からそう聞いた理由を、Nは冷静に考えた。あ、俺が今、彼氏の有無を聞いたせいだ。

 左手に指輪が光っていない。きっと仕事では外しているのだろうと、勝手に信じてみる。

 思えば違う学校の制服の女子に恋して、同じ電車の同じつり革に触れたのは十六歳。ゴールデンウイーク前のことだった。女の子の手さえもつなげなかったこの俺が、今や人妻相手にテーブルテニス。

「春野さん」

 そうなるとNの土壇場だった。狼のごとく獲物を捕らえ、既婚者が陥落する瞬間を待っていた。

お題は決まった。

「古今東西、お祈りメール!」

 と、意気込んでラケットを構える。乾いた音が響いた。その球は網にかかって動かなかった。くり抜いた人事の目玉のようである。古今東西、お祈りメールと題したものの、さすがに早口言葉は続かなかった。

 数秒前の会話はこの通り。 

N「時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます」

春野「このたびは弊社求人に応募いたしまして誠にありがとうございました」

N「末筆ながら……」

 春野の額には汗が流れ出ていた。昼下がりに亭主から電話が鳴っても、ベッドから体を起こし、冷蔵庫の水を取りに向かうには充分すぎる顔でいる。

 そして今、白い球は見事網に引っかかっている。

 何それ、使用済み? 

「わざと失敗したんだ」

 Nの言い訳。元卓球部とは思えない言動だった。

 午後、既婚者とのラリーが続く。

「あの、私……」

 春野は困惑しているようである。 

「大丈夫。気にしてない。君が既婚であろうと、ピザが美味しいことには変わりない」

「……旦那には、内緒です」

「気付かなかった。オーディションの頃は」

「あの日は、既婚であることを隠してたんです。その代わり、志望動機の欄にはキスマークだけ付けました」

「それで合格?」

「はい」

「さすがはゴンザレス氏。書類審査を心得ている」

 一度は聞いてみたかった台詞。だんなにはないしょです。まさか隣で聞けるとは奇跡に近かった。春野の首筋には汗がにじみ出ている。ペットボトルを飲む口元、喉のライン、そしてTシャツの上から否応なしに膨らんだ胸。チラ見しては冷静を保とうと会話する。Nは己の年齢を考えた。もうアラサーなのに。フルネームの方は一応、履歴書に記載している。名は体を表すとはよく言うものの、元来の照れ屋で口下手な性格が災いして、面接にこぎつけても落ちることが多かった。Nは自己PRを知らない。その分、予定時間の三十分前に到着するという用意周到さで、常に相手との距離は遠かった。これから話す相手と打ち解ける気がなく、採用には至らなかった。ウェブからの応募。職歴なし。たいしたアルバイト経験もなく、堂々とこのようなことを書いた。「協調性はありません」

 さすがに慈悲深い採用担当者でも腰が引けた。書いた当の本人は、これこそ自己アピールだと信じて疑わない。世界中をバックパックする気力もなく、貧しい国を駆け巡って自分よりお腹を空かせた少年に見せる愛もない。地雷撤去の勇気もなく、人間の壁を作るほどの器量もなかった。おまけに輝ける笑顔のための就職活動と並行して、可憐なメイクに手間隙をかける麗しき大和撫子の恋人もいなかった。

 鏡を見て、ため息をつくほど時間もなかった。今、できる精一杯のことをやる。法務大臣のハンコ、大統領の昼寝、女子高生のアルバイトと等しく、与えられた使命を全うする。そろそろ蝉が鳴く頃だ。晴れた日の夕暮れは、地平線にオレンジの綿を潰して、まだキスを知らない少年少女のために広がっていた。

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