『禍津の大森林』。
十一年ほど前からこの森はそう呼ばれているらしい。
まだ僕が五歳くらいの時の話だ。
この森に現れる魔獣がどんどん強くなっていくという異常事態が発生した。
それは今も継続している。
武士が、忍者が、僧兵が、その森を調査するために何度か派遣された。
帰ってきた者は多くはない。
けれど彼らは一様に、同じ単語を口にした。
そこは【地獄】である、と。
僕はナメてたんだ。
欲しい物があった。
認めて欲しい人がいた。
そのためなら命も懸けられると、そう思っていた。
だけどこんなの聞いてない。
「グゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!」
「ギィィィィィィィィィィ!」
目の前に迫る数十の
「グルルルルルルルルゥゥゥゥ!!」
そこへ突然現れた黒い雷を纏った狼が、その鬼共を蹴散らしていく。
「キシャアアアアアアァァァァァ!!」
その狼もまた、地中より現れた巨大な食虫植物に丸呑みされた。
僕はただその光景を見ながらがくがくと震えることしかできなかった。
何もできない。
何の抵抗もできない。
持ってきた剣は餓鬼にぶん投げて失くした。
地獄、確かにそうとしか形容できない。
食虫……いや、食獣植物の大口が僕を向く。
こんなところで終わるのか?
命を懸ける覚悟で来たのに……
こんなの、ただ命を無駄にしてるだけじゃないか……
――僕の人生は無意味に終わるのか?
そう思うと同時に、今までの記憶がフラッシュバックした。
これが走馬灯って奴なのかな……
僕は『剣聖』の息子として生まれた。
世界に七人しか居ない剣技の最奥。この国を支える最強の個人戦力だ。
父は自分の跡を継がせようと僕を鍛えた。
いや、違うな……
『ゲホッ! ガハッ! やめてよお父様、痛いよ……』
『何を倒れている? 早く立て。剣を取れ。お前には俺を継ぐ責務がある』
あれはただの拷問だ。
ゲロを吐いた数は思い出せない。
痛みで眠れなかった夜の数を思い出せない。
剣なんて嫌いだ。
剣術なんてクソくらえだ。
あのクソ親父が、僕は大嫌いだ。
でも僕はまだ何も成していない。
僕にだって夢があるんだ。
なのに、こんなところで死ねない!
死にたくない!!
だって僕は――
「僕は、料理人になりたいんだ!!!」
それが僕の夢。
きっとここなら他にはない食材が手に入ると思った。
それを使った料理なら店を開けるんじゃないかと思った。
名前を変えて、父から解放されて、自分の好きなことに没頭して暮らしたい。
それが僕の願い。
だから僕はこの森に来たんだ。
「終奥――」
え?
その声は巨大な植物の、更に奥から聞こえてきた。
「龍太刀」
天を斬り裂くようなその斬撃は、一度だけ見た父の奥義の更に上を行く剣技に思えた。
幻想の具現。
それがたった一本の鉄の棒で成し遂げられたなんて到底信用できない。
そんな奇跡的な一刀だった。
食獣植物の身体が止まり、自身の死に遅れて気が付いたように肉体が上下に別れる。
これだけの強さの魔獣を一刀両断――
まさか、父以外の剣聖でも居たのだろうか?
「よっと、さてこいつは食えるといいけど……」
その植物の死骸を乗り越えて現れた男は、想像していたよりもずっと若かった。
二十歳くらいだろうか。
黒髪に軽装鎧を身に着けていて、さっきの斬撃を放ったであろう刀は刃零れが激しく、一部は錆びている。
あんな刀で、あんな斬撃を放ったっていうのか……?
ほんとに何者だよ……
「貴方は……」
「お、そういやお前料理人とか言ってたな?」
「え? いや、まだ見習いレベルですけど……」
「俺の自炊に比べりゃ全然マシだ。この森、見たことねぇ動植物ばっかだから調理の仕方とか分かんねぇし」
「ぼ、僕ならできます。料理! 色々本とか読んで勉強してるから……」
って何言ってるんだ僕、まずはお礼だろ。
「あ、それよりありがとうございました! 助けていただいて!」
「いいって、つーかこの森こんな風にしたの俺だし」
「……はい?」
「リアスコードを使った進化の実験。割と上手くはいったけど、まだ俺を超えるレベルの魔獣は生まれてこねぇんだよな……」
意味の分からないことを呟きながら、男は僕へ近寄って来る。
感じる魔力、その立ち姿、僕のような才能の無い剣士にも一目瞭然だった。
この人は、途方もなく強い……
「俺はネル、ただの流浪人だ。お前は?」
「ぼ、僕はリョウマです。家出してきました」
「はっ、そりゃいい。じゃあ俺に料理を作ってくれよ。ここ数年間真面な飯食ってねぇんだ」
「も、勿論です。そんなことがお礼になるなら!」
この人と一緒にいればこの森の食材を獲って来てくれるかもしれない。
この森の食材を使った料理の腕を磨くのは僕には必要なことだった。
そんな打算も確かにあって、僕は二つ返事で彼の提案を呑んだ。
それが僕とこの人の出会いだった。
この時、僕はまだ理解していなかった。
この人の中にある欲の大きさと、この人の規格外の強さを……
◆
リアスコードにはこの星で発生した『進化』という現象を解析した記録が収集されていた。
本来それは世代を跨いだ時に発生する突然変異が生存に有利だった場合に生き残ることを指す。
しかしこのリアスコードでは進化とほぼ同等の変化量を持ちながら、世代を跨ぐ必要のない『覚醒』に関する記述があった。
それはオーガがオーガロードになるような指向性を持った魔力が一点に集中した場合に限り、世代交代を必要とせず、もしくは極めて少ない世代交代においても革新的な突然変異が発生する、という理論だ。
ならば意図的に魔力が滞留する空間を生み出せば。
その内部で戦闘能力が求められる環境を形成することができれば。
意図的に魔獣を上位種へ覚醒させることができるのではないか、と俺は考えた。
空間に魔力を意図的に充満させる。
そんな魔術を俺は会得していた。
名を【迷宮創造】。
十二年前、親に捨てられこの森を彷徨っていたガキに転生した俺は、更に俺が強くなるために、この森自体をダンジョン化して俺を倒せるような魔獣を生み出すことを思いついた。
実験は概ね良好だ。
確かに目を見張る特性を持った魔獣は幾つか誕生した。
だが問題が二つ。
未だ俺より強い魔獣は現れていない。
練習相手にはなれど、本気を出すには足りない連中ばっかりだ。
そして飯がマズい。森全体の動植物が魔力によって突然変異したせいで、調理の仕方が普通の魔獣と違い過ぎる。
俺の料理の腕じゃこれをまともに調理するのは無理だった。
まずい飯でも問題はないが、毒とかあると面倒くさい。
解毒術式は魔力消費が大きいし、一々腹を下すのも馬鹿みたいだ。
「雷狼のソテーと食獣草のサラダです」
だから、リョウマが作った料理を見た時は思わず息を呑んだ。
「マジで、お前が来てくれて良かったよ」
正直、ここ十一年で食った飯の中で断トツの料理だった。
狼の肉なんて、俺が調理したらゲロマズだったのに。
毒の胃液巻き散らす動植物なんて口に入れた瞬間腹が壊れたのに。
「調味料を持ち込んでいたのもありましたけど、色々調理用の魔術を使えるんです」
「調理用の魔術?」
「例えば火を起こす術式や水を生み出す術式、寄生虫や毒素を分解する解毒術式など、それ以外にも色々と」
「プロじゃん」
「そんなことないですよ。全部独学ですから」
そう言ってリョウマは包丁を研ぎ直し、鞄の中にそれを仕舞っていた。
これが独学?
じゃあもっと凄いんじゃないのか?
この森に来る人間は何人か居たが、こいつほど弱い奴は初めてだ。
侍や忍者なんかの武芸者が、森の調査のために赴いて来るばかりだったから。
「お前、なんでこの森に?」
「ここの動植物は特殊なので、それを使った料理で店を開きたくて……」
「店か……けどこの森に客なんか来ねぇと思うけど?」
「勿論この森には仕入先の偵察に来ただけです。ネルさんは、どうしてこの森に?」
「いや、俺は住んでるんだ」
「住ん……でる……? え? この森に!?」
「そっ、十一年前からな」
「十一年前ってこの森の動植物が急に凶暴化し始めた時からじゃないですか」
なるほど、外ではそんな感じになってるのか。
魔獣の覚醒進化を引き起こすなんて意味不明な話より『凶暴化』ってくらいが理解しやすい現象だったんだろう。
それに、この森の脅威度を考えれば真面な調査ができてるとは思えないしな。
「つか最初に会った時に言っただろ。それをやったのは俺だ」
「またまた、幾ら強くても人間にそんなこと……」
信用されたいわけじゃない。
だからそれ以上に証拠を示したりする気はない。
そんな感情で愛想笑いを浮かべるリョウマを見つめる。
「……本当に?」
「本当に」
「じゃあネルさんってめっちゃヤバい人じゃないですか……」
「めっちゃヤバい奴に捕まってマジドンマイ」
親指を立てて笑いかければ、ドン引きした表情でリョウマは数歩後ずさった。
「この森は一種のダンジョンだ。結界魔術によって空気中の魔力を操って意図的に濃度を上げてる」
加えて、リアスコードの進化論と覚醒論に乗っとって俺に都合の良いように少し環境を調整してある。
「ダンジョン……だからこんなに動植物が活性化してるのか。でも何のために?」
俺の信念であり、真理であり、たった一つの生きる理由。
それを語るのに惜しげや後ろめたさは全くない。
「俺が、【最強】になるために」
「ッ……」
リョウマが息を呑む。
少しだけ殺気が漏れちまったらしい。
頷きを一つ、決心したような面持ちで俺を見た。
「あの、お願いがあります」
「何だ?」
「今後も僕に料理を作らせてくれませんか?」
「なんで?」
「僕は料理人になりたい。父の跡なんか継ぎたくない。自由に生きたい。でもそのためには腕が必要なんです。この森に現れるような魔獣を調理する腕が」
そう言ったリョウマの目は、俺にビビってることは明白なクセに、それでも確かな覚悟が宿っていた。
命を懸ける……そんな覚悟が……
「いいぜ。じゃあ俺の家に来いよ」
「家? 分かりました、行きます」
十一年もあれば色々とできることはある。
生物の進化の実験をしながらではあるが、俺の暮らしの快適性の向上も少しはやった。
まぁ、主にやったのはエルドたちだが。
木材には困らない。
石材の加工は俺の剣で簡単にできる。
設計図はビステリアに作らせた。
ビステリアとの関係は良好だ。
リアスコードのことも話してある。
けどやはり重要なことについては『禁則事項』の一点張り。
アガナドから採取した金属を取り入れてバージョンアップしたらしいが、核心を教えてくれる気はないらしい。
それでもこの建造物の設計を含めて、基本的に協力的だ。
屋敷というほど上等じゃないが、それでもそれなりの大きさの建物だ。
この国が四度目の転生先と同じ場所だということは分かっていた。
タガレ・ゲンサイ、俺の剣の師匠が居た東洋の島国。
その建築様式に倣ったこの建物は二階建ての和様建築だ。
「この森にこんな建物があるなんて……」
「一階を今日からお前の店にしていいぞ。食材は俺が獲って来てやる」
そうして俺とリョウマの共同生活は始まった。
リョウマの作る飯はかなり美味かった。
この森の食材は普通の料理に使われるものとは全く違う。
変なクセもあるだろうし、色々と調理に必要な技術も必要だろう。
だけどリョウマは俺が新しい食材を持っていく度に目を輝かせて料理していた。
「今日は氷鈴魚の寿司です」
「こいつ湖の魚だろ? 生で大丈夫なのか?」
「【解毒の理】。調理用の魔術で殺菌や寄生虫の排除はできるんです。元々は毒素を抽出する暗殺用の魔術らしいですけどね」
「なんでも使いようだな」
「僕には才能がないから、なんでも勉強するしかないんです。父は僕を剣士として育てたけど、僕にはその才能はなかった。僕は父から逃げて剣の道を諦めました。逃げた僕に料理の才能なんてあるんでしょうか?」
包丁を研ぎながら、リョウマは俯いてそう言う。
「才能に憧れる奴は大抵努力を諦めた奴だ。自分の能力の限界を、自分の努力の限界を……受け入れた奴だ。才能がある奴には何をしても勝てない、そう思えば楽だろうよ。もう頑張らなくて済むんだから」
重要なのは始まりでも過程でも結果でもない。
自分が今、何をしたいかだ。
「だけどな、持って生まれた才能なんて本気で努力した人間の最終地点から見れば飾りにも劣るハリボテだ」
特別な目を持とうが。
獣の身体を持とうが。
操作系統への適性を持とうが。
全属性への適性を持とうが。
関係ない。
その上に築かれるそいつの最大からすれば、そんなのは些細なものだ。
「お前が才能があるかなんて知らねぇしどうでもいい。だけどお前は自分の夢に命を懸けられる人間だ。それは普通の奴にはできないことだ」
こんな森に来てる時点で、こいつの本気は分かり切ってる。
「お前の作る飯は美味い」
包丁を研ぐ手が止まる。
俯いたまま、リョウマは震えた声で言った。
「ありがとうございます……」
俺はリョウマの顔を見ないようにしながら、目の前の寿司を口へ運び続けた。
数分経ってから、リョウマはようやく顔を上げた。
「そういやこの米はどうしたんだよ?」
「少しだけ持ち込んでいたものを使いました。種もあったのでこの家の裏手で栽培を始めましたよ。手入れはネルさんの魔獣に任せています。この土地の魔力の影響か、作物の成長も速くて驚いてます」
「へぇ、そんな効果もあるんだな」
「まぁ問題は育った米が突然変異で変な特性を持っていないか、ということですけど」
「確かに……」
前世で【
この巨大な城を維持できてるのも配下の魔獣のお陰だ。
畑仕事も教えればできるだろう。
「俺の魔獣を有効に使ってくれてるようでなによりだ。もし客が来たら給仕にしていいぞ」
「そうですね」
冗談めかした俺の言葉にリョウマは微笑んで答える。
この森に人が来ることはかなり稀だ。
それをリョウマも俺も分かった上での会話だった――
ガラガラガラ……と、家の戸が開く。
「こんな場所に家があるなんて驚きだわ」
そう言って戸の外より姿を現したのは金髪のエルフだった。
赤い瞳を持ち、腰に帯刀したその女は、圧倒的な魔力と絶対的な自信を隠すことなく、ずかずかと中へ入って来る。
俺は、その女を知っていた。
「リア?」
「……ネル?」
奴隷剣闘士の人生で戦った時以来、約五十年振りの再会だった。