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第16話 女に気の利いた台詞など吐けない

「喜三郎さん」

 小日向屋と入れ違いに、蛇遣い太夫のお蔦が近寄って来た。


「豊吉さんが、すみませんでしたねえ」


 お蔦は、喜三郎が、江戸暮らしの間、仮住まいしている、同じ長屋の住人である。


(お蔦さんも、苦労してるよな。とはいえ、お蔦さん自身も、他に行く当てもない、訳ありの身だろうしな)


 この時代、〝娘〟といえば、十二、三から十八、九まで。二十も過ぎれば〝年増〟である。


 お蔦は、二十五を過ぎた年増だが、小股の切れ上がった、いわゆる〝侠〟な、いい女だった。


 浴衣の上に、色目こそ派手だが、薄汚れて安物らしい衣装を羽織っている。

 喜三郎に近づいてきて、斜め後ろの位置に立った。


(あの黛とは、およそ格が違う。同じ〝女ぶり〟で売る女でも、こうも違うものか)


 お蔦は、美人太夫という触れ込みで、蛇遣いとして舞台に上がっている。

 世間からいえば、かなりの上玉に入るだろう。


 だが、吉原の、最上級の〝呼び出し昼三〟の花魁と比べられれば、形無しだった。


 舞台での扮装のため、お蔦の髷は、大きな輪になっている。

 武家風の〝勝山髷〟に髪を結い上げているので、行き交う人々の中でも、よく目立った。


 髪のほつれを直しながら、

「喜三郎さん。すみませんねえ。豊吉さんったら、入りが悪いもんで、悋気を起こしてんですよ。男のくせに恥ずかしいったらありゃしない」と、喜三郎の耳元にささやいた。


(黛も、あのとき、耳元で……)


 なにかにつけて、黛を思い出してしまう。喜三郎は苦笑した。


 黛と〝床入り〟しなかったからこそ、あの日の黛の残像が、しばしば喜三郎を悩ます。


「ところで、ねえ、喜三郎さん。お秀さんのおとっつあんの具合は、どうなんだろうね」


 お蔦は、客が来ず、暇なので、喜三郎と世間話を始めるつもりらしかった。


「おとっつあんも歳だからな。『ゆっくり看病してやりな』って、お秀を帰したんだが」


 女房のお秀は、大坂の出である。

 喜三郎が大坂に出た当初、仮住まいしていた、荒ら屋の隣家の娘だった。


 今も、本拠を大坂に置いているので、江戸での興行が終わり次第、大坂の家に帰ることになっている。


「お秀さんは良くできたおかみさんだから、喜三郎さんも幸せだねえ」


『良くできた』という言葉は、文字通りではないだろう。


 揶揄するような含みを感じさせながら、お蔦は、ぞくっとする流し目で睨んだ。


 折に触れ、お蔦は、喜三郎に、粉をかけてくる。


(男なら、誰でも応じるとでも思ってんのか。お門違いでえ)

 誰彼となく誘うような〝小汚い〟女は、大嫌いである。


 お蔦の媚びに気付かぬ振りで、晴れ渡った空に張り出した、大銀杏の枝を見上げた。


「一度目のかかあで懲りたからな。俺の仕事に理解があるってえのが一番だな」


「おやまあ。お秀さんは、二度目だったのかい」


 お蔦は、いかにも驚いたように、切れ長な目を大きく見開き、興味津々で顔を覗き込んできた。


「故郷の熊本にいた、二十三のときだった。おふくろの遠縁の女で、お真知って女と所帯を持ったものの……」


「それで、それで?」

 お蔦は、さらに目を輝かす。


(女は、この手の話が好きなのが困る)


 困りながらも、大入り続きで気をよくしている喜三郎は、口も軽くなっていた。


 木戸が閉まれば、明日のために人形の手直しがあるが、目下のところ、暇を持てあましている。

 時を潰すため、お蔦との四方山話も、悪くはなかった。


「俺は、若かった。とにかく、『人形作りの腕を試したい、世に問いたい』てえ一心で、凝り固まってたんでえ。所帯を持った明くる年の嘉永元年にゃ、熊本を飛び出てよ。お真知を置いたまま、大坂に出ちまった。俺は、小物細工で生計立てながら、人形をこつこつ作り始めた。だけど、女房を呼び寄せるゆとりなんぞ、できるはずもなかったんだ」


喜三郎は、草履で、銀杏の根元を踏みしめた。


「お真知のほうから惚れてきて、若さの勢いで所帯を持ったって塩梅だったしよ。俺は、人形の興行が実現できるかどうかで、頭がいっぱいだったんだが……。この年になってみれば、お真知には、随分と酷い亭主だったってえわけだ」


 人形作り一辺倒の喜三郎に、お真知は従いて来られなかった。


 喜三郎は、嘉永五年、二十八のとき、お真知やお真知の親族一同に迫られ、無理矢理、三行半を書かされた。


「で、つい一昨年、所帯を持ったのがお秀だった、ってえわけだ」


 お秀は現在、三十九で、三十一の割りに気が若い喜三郎にとっては、母親代わりであり、近頃では、滅多に交合すらない関係である。


 お秀は、風変わりな女だった。三度も出戻っている。

 理由を聞いたことはなかったが……。


「気がつけば、女房になってたってえわけだ」


 喜三郎は、無意味に左肩を、右手で叩きながら、苦笑した。


 お秀は、隣家ということで、なにくれとなく世話を焼いてくれるうちに、いつの間にやら、喜三郎の家に居着いてしまった。


「俺は、人形についちゃあ、譲らねえんだが、他のことはどうでもよくて、ついつい流されちまうんだ」


 優柔不断だと思うが、頭の中が、人形についての思案ばかりに埋め尽くされて、余裕がない。


「じゃ、じゃあさ。あたいはどう。別に、お秀さんから喜三郎さんを奪おうなんて気はないけどさあ。今はお秀さんも留守だし、精力を持てあましてるんだろ」


 あまりに、直裁にくどかれ、喜三郎は「え」と絶句した。


「あー。純情なんだねえ。顔が真っ赤だよ。冗談に決まってるだろ。喜三郎さんの身持ちの堅さは、あたいだって知ってるさ。あははは」


 お蔦は、蓮っ葉な笑い声を上げ、袂で顔に風を送った。


 喜三郎は、自分より年下のお蔦にからかわれ、むっとして、口を噤んだ。


 風に乗って、お蔦の髪につけられた、鬢付け油の臭いがした。


「それはそうと……」


 お蔦のほつれ毛が、風の悪戯で、海中にたよたう海藻のように、ゆらゆらと靡く。


「ねえ、喜三郎さん。うちの小屋も、もうお仕舞いだねえ。この前も、うちの太夫元が、『なんとか場所替えしてくだせえ』って、辰五郎さんに相談を持ちかけてたけどね。場所の問題じゃないのは、皆、よっくわかってるんだよ」


 お蔦は、寂しげに微笑んだ。

 浮ついた話から、いきなり、しんみりとなった。


「若かった頃はさ。自分で言うのも恥ずかしいけど、今よりずっと綺麗だったよ。〝色っぽい美女に、気味悪い蛇が絡む〟ってえのが受けてねえ」


 お蔦は、思わせぶりに、遠い目をした。


「あたしゃ、自分の飼ってる蛇のお玉の身の上とまるで同じじゃないかと思うんだよ」


「え?」


「か弱い女が、蛇を意のままに操れる〝絡繰り〟を知ってるかい?」


「あ、ああ」


 喜三郎も、興行の世界に生きる人間である。

 知らぬと思われては恥ずかしい気がして、曖昧にうなずいた。


「蛇は、精気を抜いてあるのさ。闘志も元気もないんだよ。生ける屍ってことさ。香具師の秘伝書で、『蛇遣い覚書』にも書いてあるけどさ」


「そういや。そんな秘伝書があったっけな」


 喜三郎は、人形師が高じて見世物小屋を張っているが、根っからの香具師ではない。

 香具師の秘伝書など聞いたこともなかった。


 だが、これまた知らぬとは言えば、沽券に関わる気がして、適当に言葉を濁した。


「蛇が穴からまさに這い出そうとするとき、木綿切れで捕えるのさ。逆さに抜けば、鱗の縁にある細い刺は皆、木綿に引っかかって抜けちまうんだ。次にさあ、蛇の口を開けさせ、これまた木綿切れを固く詰め込むんだ。急に引き出すと、歯は全て抜け落ちちまう。蛇は力を失い、自由自在に遣えるってことさ」


 蛇を虐待するさまを、お蔦は、得意げに語った。

 自分の飼う蛇に、なんの情もないのだろう。


(吉原の女郎と廊主の繋がりに似ているのかもな)


 黛は、育てられた恩を、廊主である佐野槌屋夫婦に感じているらしかった。


 だが、佐野槌屋は、おそらく黛を、鵜飼いの鵜としか思っていないに違いない。


(蛇のお玉とやらは、果たして、お蔦をどう思っているのか)

 つまらぬ問いかけが 頭をよぎった。


「毎日、鶏の卵をといて、少しづつ匙で飲ますと、何年も生きてるけど、生きていて、どういう甲斐があるのやら……あたしと同じってわけさ」


 急に、お蔦の身の上に繋げられ、喜三郎は返答に詰まった。


「あ、いや。それを言っちゃあ……」


 女に、気の利いた台詞など吐けない。

 喜三郎は横を向いた。

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