自分の小屋に目を転じた喜三郎は、木戸口での騒ぎに気付いた。
「なんでえ」
誰かが、木戸番たちと口論している。
口上の庄助が、猿顔を真っ赤にして怒鳴っている。
喜三郎の立つ大銀杏の辺りからでは、喧嘩の内容までは聞き取れない。
「また、揉め事かい」と、お蔦が笑う。
木戸番と客が言い合うのは、日常茶飯事で、珍しくもない。
押し合いへし合いしながら押しかける客は、待たされて気が立っている。
「貴賤を問わず、並ぶうちにゃ、身分を笠に着る手合いもいるからな。おおかた、自分の手前あたりで、客止めになった〝お偉いお方〟が、『この儂が、これだけ辛抱強く待ってやったのだから、儂だけは、特別に入れろ』と、噛みついたってぇか」
喜三郎は、鼻先で笑った。
下賤な見世物に、本当に〝高貴〟なお方の〝お成り〟などは金輪際ない。
高貴なお方の〝使い〟の者が、御主人の身代わりに見物し、詳細をご報告する。
だから、実際に訪れている人間の身分など、たかが知れている。
中途半端な人間ほど、相手が少しでも格下と見れば、空威張りし、横柄な態度をとる。
「見たところ〝白衣役(びゃくえやく)〟みてえだが……」
中間などは、白衣役といい、羽織も袴も着ることもなく、屋敷には上がれない。
「あれは、水戸さまのお屋敷の中間の……。確か、権三とかいう男だよ」
横で見ていたお蔦が、頓狂な声を上げた。
素足に草履履きで、着物の尻を端折っている。
おおかた、下屋敷の中間部屋に住んでいる手合いだろう。
「水戸様の下屋敷といやあ、目と鼻の先だな」
常陸水戸藩、水戸徳川家の上屋敷は小石川だが、中間部屋のある下屋敷は、隅田川、北十間川に面した、本所小梅に有った。
下屋敷だけでも、二万坪ほどもの広大さを誇っている。
「お蔦さんの知り合いか?」
「知り合いなんてもんじゃないよ。あいつは、下っ端の下っ端。二本差しでもないくせにさあ。水戸さまの御家中ってのを笠に着て、やりたい放題の奴なんだ。去年、東両国で開いてた、うちの小屋にもやってきてさ。木戸銭を払わないで無理矢理、押し入りやがって。おまけに、あたいにちょっかいを出しやがってさあ」
お蔦は、悔しげに唇を噛んだ。
何があったかまでは聞かないほうが良さそうだった。
中間は、武家屋敷の下男のような役割りで、自分たちが住む長屋で博打を開帳するなど、良からぬ手合いも極めて多い。
「ちっとばかり厄介だな。けど、今のところ、他に仲間の中間はいねえようだし。こちとらは大勢なんだから、どうってこたあねえよ」
喜三郎は、事態を楽観していた。
「あ。始まっちまったよ。喜三郎さん」
木戸の番台の上と下で、木戸番と、権三が殴り合いを始めた。
「木戸番たちが、地面に下りて、まともにやりあうようになれば厄介だな」
木戸番には、腕っ節に自信がある男が三人もいる。
香具師は、気が荒い。
火事場の〝仕事師〟、火消しに負けぬ血気盛んが信条である。
逆に、権三という中間に怪我でも負わせれば、水戸家の顔がある。
あとあと難儀だと思えた。
喧嘩の仲裁に入るべく、おもむろに小屋に向かおうとした、そのとき。
権三が、突然、木戸番との殴り合いを止めた。
くるりと、踵を返すや、〝招き人形〟が飾られた台に駆け上がった。
「な、なんてことしやがる」
権三は、こともあろうに、『近江のお兼』の人形を始め、馬などの小道具を手当たり次第に壊し始めた。
「俺の大事な人形を!」
頭にかっと血が上る。
喜三郎は、一目散に小屋に走った。
小屋周りの混雑を避け、小屋の横手から、招き人形の置かれた場所へと急ぐ。
(のんびり、お蔦と油なんぞ売ってなきゃよかった)
すぐ近くなのに、なかなか辿り着けない。
「どけ。どきやがれ」
木戸口に近づき、客と野次馬の入り交じった人波を、泳ぐように掻き分ける。
すぐ先では、権三がやりたい放題、暴れ放題を尽くしている。
「やめろ。やめねえと、ぶっ殺してやる」
喜三郎の叫びは、権三まで届かないのか、馬耳東風なのか。
権三は、お兼人形が持っていた桶をもぎ取り、木戸番に投げつける。
引っこ抜いた、作り物の松の幹を小脇に抱え、振り回す。
五人もいる木戸番や庄助は、右往左往し、取り乱すばかり。
招き人形の台の前をうろうろしている。
「何してやがる。早く、権三を止めんかい」
喜三郎は大声で怒鳴った。
顔は、真朱を通り越して、浅葱色なのか、はたまた色がないのか。
「あ。喜三郎はん」
庄助が、喜三郎に気付いた。
木戸番たちも、一斉に縋るような目を喜三郎に向ける。
(無理もねえか)
喜三郎がどれだけ人形を大事にしているか、小屋の者は、骨身に染みて分かっている。
権三と揉み合ううちに、人形を傷つけることが怖いのだ。
手出しできぬのをよいことに、権三は暴れ続けた。
『風流生人形』と書かれた、張りぼての碑が、蹴倒されて裏返る。
裏を見れば、身も蓋もない作りなのは、芝居の大道具と同じである。
「大力のお兼も、俺っちに掛かっちゃ、さっぱりじゃねえか」
権三が、お兼人形を引き倒し、得意げに高笑いする。
あまつさえ、お兼の首を抜き、胸の辺りを足で踏んずける。
胴の部分が、たちまち、へしゃげる。
張りぼての提灯胴に詰めた、反故紙や、藁縄や、駄布が、白昼の元に曝け出される。
婀娜っぽい美女が、台無しだった。
精巧な作りの人形と、顕わになった、貧相な中身の落差に、見物人が笑い出す。
「くそ」
喜三郎は、人波を掻き分け、ようやく、権三に声が届きそうな場所まで辿り着いた。
「やめろ。やめんかい」
喜三郎が、叫ぶが、却って権三を奮い立たせる効果しかない。
調子に乗った権三は、馬の首を抱えて、見物人の頭上に放り投げる。
人々は、驚き半分、おかしさ半分で、どよめき、逃げ惑う。
「俺の苦心の人形が……。人形一体を作るのに、いったい何日かかると思ってやがる」
弟子任せにはできない性分である。
何でも一から納得が行くように作らねば、気が済まない。
だから、なおさら時間が掛かる。
今回の興行に出した人形は、六十二体である。
全てを新調するには、日にちがいくらあっても足りない。
何年も掛かってしまう。
前回の興行が終わって、今回まで半年足らずである。
使い回しの人形も多い。
お兼人形も、大坂で、丸山遊女の場に使ったうちの一体の流用である。
だが、新たに出す際には、大いに手直ししている。
どの人形も、可愛い我が子である。
「ぶっ殺してやる」
喜三郎はようやく、野次馬やら、客やらを押し分け、招き人形の舞台まで辿り着いた。
ここまで来るにも、息が切れる。
「俺りゃあ、水戸さまの御家中のもんでえ。俺の後ろにゃ、水戸徳川家三十五万石がついてるんだ」
権三は、酔っているのか、大口を叩く。
「お侍と小者の間だから、中間っていうんだろうが。偉そうに侍気取りでも、腰の刀は、木刀と決まってらあ」
権三の刀は、いかにもまともな脇差しのように、装飾されているが、木刀に違いない。
中間は武士ではないので、帯刀は許されていなかった。
「御託を並べてねえで、ここまで上って来いや」
権三が、嘲りながら、歯を剥き出しにして手招きする。
いかにも腕っ節自慢そうな大男である。
対する喜三郎は、背が高いとはいえ、細身である。
「俺っちも、熊本じゃ、祭の喧嘩で負け知らずでえ」
怪力の持ち主ではないが、敏捷な動きには自信がある。
いや、腕に覚えはなくとも、ここは果敢に戦いを挑むべき場だった。
「いま、行ってやらあ」
舞台に躍り上がった。
権三に殴りかかる。
権三も負けてはいない。
壇上で、殴り合う。蹴り合う。
大道具、小道具が飛び交う。転げ落ちる。
「こうなったら、自棄糞だい」
喜三郎も、破壊された自作の残骸を、権三に向かって投げつける。
「喜三郎さん」
木戸番たちが、蒼い顔で、おろおろする。
「師匠」
騒ぎを聞きつけて駆けつけた、手伝いの人形師、秋山平十郎が叫ぶ。
「負けるかい」
喜三郎は、権三の腰にむしゃぶりつき、相撲の手よろしく、足を掛けて引き倒した。