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第17話 大事な人形たちが……

 自分の小屋に目を転じた喜三郎は、木戸口での騒ぎに気付いた。


「なんでえ」

 誰かが、木戸番たちと口論している。


 口上の庄助が、猿顔を真っ赤にして怒鳴っている。

 喜三郎の立つ大銀杏の辺りからでは、喧嘩の内容までは聞き取れない。


「また、揉め事かい」と、お蔦が笑う。


 木戸番と客が言い合うのは、日常茶飯事で、珍しくもない。

 押し合いへし合いしながら押しかける客は、待たされて気が立っている。


「貴賤を問わず、並ぶうちにゃ、身分を笠に着る手合いもいるからな。おおかた、自分の手前あたりで、客止めになった〝お偉いお方〟が、『この儂が、これだけ辛抱強く待ってやったのだから、儂だけは、特別に入れろ』と、噛みついたってぇか」


 喜三郎は、鼻先で笑った。


 下賤な見世物に、本当に〝高貴〟なお方の〝お成り〟などは金輪際ない。

 高貴なお方の〝使い〟の者が、御主人の身代わりに見物し、詳細をご報告する。


 だから、実際に訪れている人間の身分など、たかが知れている。

 中途半端な人間ほど、相手が少しでも格下と見れば、空威張りし、横柄な態度をとる。


「見たところ〝白衣役(びゃくえやく)〟みてえだが……」


 中間などは、白衣役といい、羽織も袴も着ることもなく、屋敷には上がれない。


「あれは、水戸さまのお屋敷の中間の……。確か、権三とかいう男だよ」

 横で見ていたお蔦が、頓狂な声を上げた。


 素足に草履履きで、着物の尻を端折っている。

 おおかた、下屋敷の中間部屋に住んでいる手合いだろう。


「水戸様の下屋敷といやあ、目と鼻の先だな」


 常陸水戸藩、水戸徳川家の上屋敷は小石川だが、中間部屋のある下屋敷は、隅田川、北十間川に面した、本所小梅に有った。

 下屋敷だけでも、二万坪ほどもの広大さを誇っている。


「お蔦さんの知り合いか?」


「知り合いなんてもんじゃないよ。あいつは、下っ端の下っ端。二本差しでもないくせにさあ。水戸さまの御家中ってのを笠に着て、やりたい放題の奴なんだ。去年、東両国で開いてた、うちの小屋にもやってきてさ。木戸銭を払わないで無理矢理、押し入りやがって。おまけに、あたいにちょっかいを出しやがってさあ」


 お蔦は、悔しげに唇を噛んだ。

 何があったかまでは聞かないほうが良さそうだった。


 中間は、武家屋敷の下男のような役割りで、自分たちが住む長屋で博打を開帳するなど、良からぬ手合いも極めて多い。


「ちっとばかり厄介だな。けど、今のところ、他に仲間の中間はいねえようだし。こちとらは大勢なんだから、どうってこたあねえよ」

 喜三郎は、事態を楽観していた。


「あ。始まっちまったよ。喜三郎さん」


 木戸の番台の上と下で、木戸番と、権三が殴り合いを始めた。


「木戸番たちが、地面に下りて、まともにやりあうようになれば厄介だな」


 木戸番には、腕っ節に自信がある男が三人もいる。

 香具師は、気が荒い。

 火事場の〝仕事師〟、火消しに負けぬ血気盛んが信条である。


 逆に、権三という中間に怪我でも負わせれば、水戸家の顔がある。

 あとあと難儀だと思えた。


 喧嘩の仲裁に入るべく、おもむろに小屋に向かおうとした、そのとき。


 権三が、突然、木戸番との殴り合いを止めた。


 くるりと、踵を返すや、〝招き人形〟が飾られた台に駆け上がった。


「な、なんてことしやがる」


 権三は、こともあろうに、『近江のお兼』の人形を始め、馬などの小道具を手当たり次第に壊し始めた。


「俺の大事な人形を!」

 頭にかっと血が上る。


 喜三郎は、一目散に小屋に走った。

 小屋周りの混雑を避け、小屋の横手から、招き人形の置かれた場所へと急ぐ。


(のんびり、お蔦と油なんぞ売ってなきゃよかった)


 すぐ近くなのに、なかなか辿り着けない。


「どけ。どきやがれ」

 木戸口に近づき、客と野次馬の入り交じった人波を、泳ぐように掻き分ける。


 すぐ先では、権三がやりたい放題、暴れ放題を尽くしている。


「やめろ。やめねえと、ぶっ殺してやる」

 喜三郎の叫びは、権三まで届かないのか、馬耳東風なのか。


 権三は、お兼人形が持っていた桶をもぎ取り、木戸番に投げつける。

 引っこ抜いた、作り物の松の幹を小脇に抱え、振り回す。


 五人もいる木戸番や庄助は、右往左往し、取り乱すばかり。

 招き人形の台の前をうろうろしている。


「何してやがる。早く、権三を止めんかい」

 喜三郎は大声で怒鳴った。

 顔は、真朱を通り越して、浅葱色なのか、はたまた色がないのか。


「あ。喜三郎はん」

 庄助が、喜三郎に気付いた。

 木戸番たちも、一斉に縋るような目を喜三郎に向ける。


(無理もねえか)


 喜三郎がどれだけ人形を大事にしているか、小屋の者は、骨身に染みて分かっている。

 権三と揉み合ううちに、人形を傷つけることが怖いのだ。


 手出しできぬのをよいことに、権三は暴れ続けた。

『風流生人形』と書かれた、張りぼての碑が、蹴倒されて裏返る。

 裏を見れば、身も蓋もない作りなのは、芝居の大道具と同じである。


「大力のお兼も、俺っちに掛かっちゃ、さっぱりじゃねえか」

 権三が、お兼人形を引き倒し、得意げに高笑いする。

 あまつさえ、お兼の首を抜き、胸の辺りを足で踏んずける。

 胴の部分が、たちまち、へしゃげる。


 張りぼての提灯胴に詰めた、反故紙や、藁縄や、駄布が、白昼の元に曝け出される。

 婀娜っぽい美女が、台無しだった。


 精巧な作りの人形と、顕わになった、貧相な中身の落差に、見物人が笑い出す。


「くそ」

 喜三郎は、人波を掻き分け、ようやく、権三に声が届きそうな場所まで辿り着いた。


「やめろ。やめんかい」

 喜三郎が、叫ぶが、却って権三を奮い立たせる効果しかない。


 調子に乗った権三は、馬の首を抱えて、見物人の頭上に放り投げる。

 人々は、驚き半分、おかしさ半分で、どよめき、逃げ惑う。


「俺の苦心の人形が……。人形一体を作るのに、いったい何日かかると思ってやがる」


 弟子任せにはできない性分である。

 何でも一から納得が行くように作らねば、気が済まない。

 だから、なおさら時間が掛かる。


 今回の興行に出した人形は、六十二体である。

 全てを新調するには、日にちがいくらあっても足りない。

 何年も掛かってしまう。


 前回の興行が終わって、今回まで半年足らずである。

 使い回しの人形も多い。

 お兼人形も、大坂で、丸山遊女の場に使ったうちの一体の流用である。

 だが、新たに出す際には、大いに手直ししている。

 どの人形も、可愛い我が子である。


「ぶっ殺してやる」


 喜三郎はようやく、野次馬やら、客やらを押し分け、招き人形の舞台まで辿り着いた。

 ここまで来るにも、息が切れる。


「俺りゃあ、水戸さまの御家中のもんでえ。俺の後ろにゃ、水戸徳川家三十五万石がついてるんだ」


 権三は、酔っているのか、大口を叩く。


「お侍と小者の間だから、中間っていうんだろうが。偉そうに侍気取りでも、腰の刀は、木刀と決まってらあ」


 権三の刀は、いかにもまともな脇差しのように、装飾されているが、木刀に違いない。

 中間は武士ではないので、帯刀は許されていなかった。


「御託を並べてねえで、ここまで上って来いや」


 権三が、嘲りながら、歯を剥き出しにして手招きする。


 いかにも腕っ節自慢そうな大男である。

 対する喜三郎は、背が高いとはいえ、細身である。


「俺っちも、熊本じゃ、祭の喧嘩で負け知らずでえ」


 怪力の持ち主ではないが、敏捷な動きには自信がある。

 いや、腕に覚えはなくとも、ここは果敢に戦いを挑むべき場だった。


「いま、行ってやらあ」

 舞台に躍り上がった。


 権三に殴りかかる。

 権三も負けてはいない。


 壇上で、殴り合う。蹴り合う。

 大道具、小道具が飛び交う。転げ落ちる。


「こうなったら、自棄糞だい」

 喜三郎も、破壊された自作の残骸を、権三に向かって投げつける。


「喜三郎さん」

 木戸番たちが、蒼い顔で、おろおろする。


「師匠」

 騒ぎを聞きつけて駆けつけた、手伝いの人形師、秋山平十郎が叫ぶ。


「負けるかい」

 喜三郎は、権三の腰にむしゃぶりつき、相撲の手よろしく、足を掛けて引き倒した。

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