騒動のあった、二月二十五日の翌日は休業したものの、翌々日の二十七日には、なんとか興行も再開できた。
騒動が噂になり、さらに客足は絶好調。
大入り、客止めの連続である。
だが、好事、魔多し。
水戸中間の騒動から、半月あまり後の三月十六日のことだった。
「兄ぃ。こんなとこに、いはったんでっか。小屋が、えらいことですねん」
蒼い顔をした庄助が、息せき切って、喜三郎の元に駆けつけた。
「なに。寺社方の実地検分だとお」
喜三郎の大声に、赤い前垂の水茶屋女が驚き、盆を落としそうになった。
喜三郎は、四半時ほど前から、小日向屋と、世間話をしながら、茶を楽しんでいた。
奥山には水茶屋が並んでおり、三十六軒あった往時は〝歌仙茶屋〟と呼ばれ、二十軒となった今は、〝二十軒茶屋〟と呼ばれている。
そのうちの馴染みの一軒で、のんびりと茶を飲んでいる最中だった。
二碗目に出された、素湯に桜花の塩漬を浮かべたものを、のんびりと味わっていた喜三郎は、手にしていた湯飲碗の湯をこぼしてしまった。
――奉行所がやってくる。
良い話のわけがなかった。
胸が、警鐘を打ち鳴らし始めた。
「すぐ行く」
喜三郎は、茶代の百文を、盆の上に、投げ捨てるように置くと、すぐさま小屋にとって返した。
庄助が続く。
もたつく、老体の小日向屋は、放っぽった。
「拙い話になりそうでんな」
庄助の上ずった声が、喜三郎の懸念を煽った。
「とうとう来やがったかい」
出る杭は打たれる。
目立つことを、お上は嫌う。
「あの、権三とかいう、水戸の中間の、仲間の訴え、いうことは、あらしまへん、やろな」
庄助が息を切らしながら、うがった説を立てた。
「権三は、国元に送られたという話だが、仲間の意趣返しという線も、無きにしもあらずだな」
今日も人、人、人――な大小屋の周りは、異様な雰囲気に包まれている。
お役人の実地検分ゆえ、既に小屋に入っていた見物客は、裏木戸から追い出されていた。
木戸銭の払い戻しを、木戸番に掛け合う客が、大声を上げている。
木戸口付近では、興味津々な客たちが、見えもしない小屋の奥を覗こうとしている。
並んだ小芥子のような頭が、ふらふらと不規則に揺れる光景が、妙に間延びしていて、癇に障った。
(俺の生人形を楽しみに、やってきてやがるくせに、小屋が難儀なことになったらなったで、不幸を喜びやがる連中ばかりだ)
客がすべて、好意的に見物に来ているわけではない。
いや、好意的な人間など、そうそういないだろう。
興味本位で小屋に入って、十二分に堪能できたとしても、帰り道で、冷静になって考えれば、『興行師ふぜいが、たんと儲けやがって。潰れっちまえ』と、妬み半分で唾を吐く輩も多い。
(ただでは済まないのじゃねえか)
黒い不安が、腹の奥底から湧き上がり、雷雲のように大きさを増す。
「寺社方は……」
何か言いかける、木戸番を無視し、喜三郎は、大急ぎで小屋の内に入った。
曲がりくねった通路を辿って、役人の姿を探す。
寺社方は、黛の人形の置かれた『吉原仮宅』のうち、『内証』の場の前にいた。
「これはこれは……。お役目ご苦労さまでございます」
喜三郎は、できる限り、にこやかな顔で、丁寧に腰を折った。
「そのほうが松本喜三郎とか申す人形師か。身どもは、寺社奉行であらせられる、陸奥国は磐城平藩主、安藤対馬守さま御家中にて小検使を仰せつかる、山内徳左衛門である」
痩せた鶏に似た山内が、見下すような顔で応じた。
小者と思われる三人ほどの配下を連れている。
大検使は、寺社役から任命されるが、小検使は、さらに身分の低い中級の武士から選ばれる。
「他のお奉行さまと違いまっさかいな。格式が高うおますからなあ」
庄助は、聞こえぬように、毒舌を吐いた。
寺社奉行は、町奉行、勘定奉行と並んで〝三奉行〟と言われるが、寺社奉行のみ、大名で、旗本から任命される町奉行や勘定奉行とは、格が違う。
「捕り物は、さっぱりのくせしてからに」
町方と違って、吟味物調役のほか、寺社役、寺社役付同心たちも、家臣から選ばれる。
奉行所も、役宅はなく、大名の屋敷がそのまま奉行所となり、家臣が寺社奉行所役人となる。
大名が寺社奉行の職を外れれば、下の者も役を去る。
所詮は素人の集まりで、町方同心の助けを借りる事例も多い。
「で、御用の向きは……」
言いかける喜三郎に、山内は、黛の人形を指さし、
「この人形は、なんだ」
甲高い声で、居丈高に言い放った。
視線は、すぐさま半裸の黛人形に戻る。
鋭いが、濁った眼差しが、黛の、顕わになった肌を舐め回る。
「と、申しますと……」
「不埒にもほどがある。仮にも、先日、お上から、ご褒美を賜った黛を、このような衆人環視のもと、肌も顕わな姿で晒すとは、不届き至極。黛が遊女であるとはいえ、不届き千万である」
よほど、立腹しているらしい。
念の入ったことに、同じ意味の言葉を繰り返す。
「い、いけませんかい。湯上がりで、髪を直させる、身こしらえの図なら、おかしかねえはずですが」
今では、銭湯は、混浴ではないが、着衣場などで、お互い、見たくなくとも、裸の姿が見える場合も多い。
所構わず、胸乳を出して、赤子に乳を含ませる母親など、珍しくもない。
暑い夏の盛りなど、裏店では、湯文字一枚で、おかみさんが、顔を出す。
女の胸を見るなど、珍しくもなんともなかった。
「ともかくだな。黛の人形は、特にけしからん」
黛の人形が、あまりに生きており、しかも色気があるゆえの〝言いがかり〟に思えた。
「で、……でだな。他にもあるぞ。『粂の仙人』の布洗い女がいかん」
『粂の仙人』は、人形浄瑠璃『粂仙人吉野花王』の一場面を題材にして作った。
『今昔物語』の久米寺縁起が元になっているので、本来なら〝時代物〟である。
が、『近江お兼』の人形同様、喜三郎流に、古風な洗濯女を、当世風の美女に置き換えてある。
「ざっと一渡り見て回ったがな。『忠臣蔵討ち入り』もいかんな。討ち入りに逃げ惑う下女の湯文字姿が、不届き千万じゃ」
どうやら、小屋内をすべて見終わり、一番、気に入った黛の場に舞い戻り、じっくりと鑑賞していたらしかった。
(卑猥でないとも言えねえところが、辛えところだあな)
喜三郎は、どれだけ、人間そっくりに作りうるかに、すべてを懸けている。
元になった人間の特徴を、誇張することも、控えめに作ることもしない。
美しければ、美しいまま、醜ければ醜いまま、平凡なら平凡なまま、そのまま作るのみである。
人間そっくりに仕上げるために、男なら、髭痕や手足の毛を、細い筆で、一本一本、書いている。
気が遠くなるような細かな作業で、剃り上げたばかりのような現実味のある顎や、むくつけき足が出来上がる。
裸体の場合、男女とも、局所も、ありのまま形作り、むろん陰毛も、植えるように書き付ける。
そっくりそのまま作るから、卑猥といえば卑猥な人形になってしまう。
「なんで〝丸山の遊女〟は、文句が出えへんのでっしゃろ」
庄助が、小声で耳打ちしながら、首をかしげた。
長崎丸山遊女の風呂場の場面では、遊女が簾を背景に、浴槽に腰掛けている。
糠袋で二の腕辺りをこすりながら、誰かと談笑している遊女は、ほぼ正面を向き、全裸で足を組んでいる。
明るく、あっけらかんと笑う遊女は、元にした女が、およそ美女とは言い難い、頬の赤い田舎娘だったため、滑稽さが先に立つ。
色気という意味では今一つの人形である。
山内も、食指が動かなかったというところか、つい見逃したのか……。
「つまり……」
喜三郎は、はたと気付いた。
「あの人形は、足を閉じている。いくら遠眼鏡で覗こうが、秘所は見えない作りだからだ」
小屋では、客に、銭四文で〝遠眼鏡〟なるものを貸し出している。
遠眼鏡で見れば、人形の細部を、間近で見られる仕掛けである。
布洗い女も、忠臣蔵の下女も、足を大きく開いている。
真朱の湯文字の奥が、見える作りになっている。
客を、密かに喜ばそうという気持ちが、込められていた。
「拙いな。洗濯女や、下女の人形は、差し替えても構わねえが。黛は一番の出来だ。黛人形を引っ込めろと言われても……」
「うちの小屋だけ、目立ち過ぎた、っちゅうことでっしゃろか。嫌がらせでしかあらまへんがな。ほんまに、どないなるんやろか」
庄助も、狭い額に皺を寄せながら、成り行きを見守っている。
「お役人さま。ここは、一つ……」
遅れて到着した小日向屋が、〝袖の下〟を山内に渡そうとした。
「無礼な。余計な真似は、身のためにならんぞ」
山内は、小日向屋の差し出した手を振り払った。
小日向屋の顔が、たちまち青ざめる。
山内は、大袈裟に一つ咳払いした。
「今日、身どもが検分に参ったのは、じゃな。よからぬ噂の真偽のほどを、この目でしかと確かめるために、他ならぬ。追って、正式にお沙汰が出る。このような、不埒な見世物は、即刻、差し止めに決まっておる。ご沙汰まで、興行は中止せい。首を洗って、当方の呼び出しを待つように」
急転直下で告げられた、最悪の事態に、喜三郎の体から血の気が引く。
「え。いきなり、差し止めなんですかい。人形を直すなと、差し替えるなと、するのではなくて、差し止めなのでしょうか。お沙汰は本当に、もう決まっているのでしょうか」
喜三郎の必死の問いかけにも、山内は、聞く耳を持たない。
目の前が真っ暗になる。
差し止めとなれば、すぐさま小屋を引き払わなければならない。
大入りだとはいえ、注ぎ込んだ元手も大きい。
今ここで興行が終われば、元手は割らぬとしても、儲けは少ない。
喜三郎が自ら、単独で太夫元になる夢は、遥かに遠のいてしまう。
それどころか、もう二度と、喜三郎の名で、生人形の興行ができなくなる懸念さえあった。
「差し止めの前に、念を入れて、こうやって確かめに参っただけでも、有難いと思え。当方は忙しい職務じゃ。下々の下賤な見世物など、見とうもないが、お役目とあらば、いたしかたない。我慢、忍耐と思うて、やってきたのじゃ。さあ、検分も終わった。差し止めは、お奉行さまが決められることだが、既にお気持ちは固まっておられる。身どもの報告が殿に上がれば、すぐさま、ご采配が下されるだけじゃ」
「いかようにも作り替えます。ご指摘の人形は、皆、引っ込めます。どうか、お奉行さまに、その旨を……」
どうあっても、興行の差し止めは避けたい。
喜三郎は、山内の前に土下座した。
「くどい。いきなり小屋の打ち壊し、召し捕りにならぬだけ、お慈悲と思わんか」
山内は言い残すと、木戸口をくぐり抜け、立ち去った。
「すぐにでも、小屋の取り払いを始めろ、ということか」
落胆と同時に、激しい怒りが込み上げる。
「生身の『大女三姉妹』は、かまへんで、作りもんの人形にお咎めて、おかしおますがな」
庄助も、憤懣やるかたない様子で、拳を握りしめた。
つい半月前の、三月初旬から、深川八幡で、成田山不動尊の出開帳が行われ、肥後の国天草出身と謳われる、大女の百姓娘、三姉妹が、見世物に出ている。
「小屋に入っても、牛が麦焦がしの臼を挽いてますねん。十六を頭に、十一と、八つの、〝松〟に〝竹〟に〝梅〟っちゅう、ふざけた名前の、よう肥えた姉妹が、麦焦がしを一袋二十四文で売ってるだけやのに、大入りやそうで」
庄助は、ここで一つ唾をごくりと飲み込んだ。
「なんでかっちゅうと、でんな。一番、年かさのお松が、薄い浴衣一枚で、胸元はだけて、おまけに……。ときたま、きわどう足を開いて、暑うもないのに、股の辺りを団扇で扇ぐそうですがな。見えるやら、見えんやらが、大受けなんでっしゃろな」
好色な見世物は受ける。
喜三郎も、好色さを取り入れてはいるが、主眼はあくまでも、生きたごとき人形の出来具合である。
好色一辺倒な、下衆な見世物には、反吐が出そうである。
「東両国で有名な『やれ突け』なんてえものが、お目こぼしってのも、恐れ入るよな」
喜三郎は、桟敷の横板を足で蹴った。
「金を払うた見物人が、打包槍で突く見世物でんなあ。女太夫の着物の裾が捲れて、秘所が見えるのを狙うて。よっぽど、やらしいですがな」
新奇なものが登場すれば、為政者の目は厳しくなるという不公平さに、悔し涙が出そうになる。
「まさか、隣の爺ぃが『おおそれながら』と訴え出たせいじゃあるめえな 」
絶対ないとは言い切れない。
豊吉の怒った、醜い顔が、脳裏に蘇った。
喜三郎の小屋がなくなれば、豊吉の蛇遣い小屋は、多少なりとも潤うに違いない。
「その、まさか、かも知れまへんで。もう、こうなったら、自棄糞や。豊吉の爺ぃをとっちめて、ほんまかどうか、吐かせたりまっか」
庄助は、はや、豊吉を告げ口の犯人と決めつけた。