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第21話  興行もお終めえだ。

 実地検分から三日後の朝五つ。


 今までなら、興行の準備を始めるはずの時刻だった。


 喜三郎の大小屋には、三々五々、小屋の連中が集まり始めた。

 むろん、一日の興行を始めるためなどではない。


 明け六つ過ぎに、喜三郎の長屋に、寺社方の同心から、寺社奉行・安藤対馬守名義の書面が届けられた。


 五日のうちに、すべてを取り払い、更地に戻すように、との御沙汰である。


 予期していたとはいえ、心が、底なしの沼地に、ずぶずぶと沈む。


「五日で更地にしなきゃならねえ。皆も、そのつもりでいてくれ。片付けの仕方についちゃあ、後で指示を出す」


 喜三郎は、集まった弟子や口上や、木戸番たちに、興行の終焉を告げた。


「やはりほんとうに差し止めですか……」


 一斉に、皆の顔が曇る。


 それぞれの肩にも、暮らしが懸かっている。

 興行が中断すれば、たちまち収入の道が途切れる。

 次の仕事を、すぐにでも探さねばならない。


「俺は、とりあえず、辰五郎さんと、小日向屋さんに、報告に行ってくる。平十郎、あとは頼んだ」


 喜三郎が、重い足取りで、小屋を後にしかけた、そのとき。


「差し止めになったんだってな」

 誰が知らせたものか、辰五郎が、早々と小屋に現れた。


 地獄耳でなければ、大勢の荒くれ者を束ねての稼業はやっていけないのだろう。


「ご迷惑をおかけして、相済みません」


 喜三郎は恐縮し、七重の膝を八重に折った。


「いや、いや。気にすんな」


 辰五郎は、さばさばしていた。


 人の目を射貫く、鋭い目には、同情の色さえ浮かんでいる。


「喜三郎、おめえのせいじゃねえ。運が悪かっただけでえ」


 辰五郎は、入牢どころか、人足寄せ場に送られた経歴さえある。

 堅気の人とは、一線を画す世界に生きている。


 役人に咎められるのは、あくまで〝不運〟なのであり、災難なのだ。


 法を犯したとしても、見つからなければ構わない渡世で、過ごしてきたから、こんな気楽な言い方もできるに違いない。


「力になるから、安心しろ」


 辰五郎は、喜三郎の肩を、いつものように、強く叩いた。


 励ましの言葉は、社交辞令だけではないだろう。


「お言葉に甘えて、恐縮ですが、次の興行先の目途が立つまでの、しばらくの間、人形や道具類、一切合切を、預かって欲しいのですが」


「おお。いいってことよ。わし自身が、貸し金のかたに、受け取った蔵もある。それでは足りないだろうが、なんといっても、わしは、この一帯じゃ顔が広い。いくらだって貸し家やら、空き蔵やら、都合をつけられるってもんよ。預かりの期限なんて気にせず、ゆっくり次の興行先を探しゃいい」

 頼もしい答が返ってきた。


 気の毒に思ってくれての言葉だろうが、一旦、口に出した言葉は絶対に実行するのが、辰五郎親分である。


「よろしくお願いします」

 喜三郎は、すがる思いで、またも丁寧に、腰を折った。


「ん?」

 遠くで、半鐘の鳴る音が聞こえた。


「お。また火事かい」


 辰五郎は、目を輝かせた。

 辰五郎の火消し魂が疼くと見える。 


「音からすりゃ、本所の方角だな。北組の縄張りでえ」

 本所と深川は、いろは四十八組からなる一から十までの大組とは別に、南、中、北組の大組からできている。


 商売柄、音を聞き分け、火事の場所までわかるらしい。


「今日は、風もないから、大火にはなりそうもねえな」


 大火にならないに越たことはないが、辰五郎は、残念そうである。


 辰五郎の見立て通りなら、火事場は、隅田川を挟んだ対岸なので、遠い。


 大火になり、浅草周辺まで延焼する危険がなければ、辰五郎の〝を〟組をはじめとする十番組の出番は、なさそうだった。


「じゃ。いつでも相談に乗ってやるから来いよ」


 火事と聞けば、じっとしていられない性分らしい。


 辰五郎は、喜三郎が返事するまもなく、新門の家に駆け戻った。


 辰五郎の立っていた場所に残っていた、僅かな暖かみが、一陣の風で吹き飛ばされた。



(辰五郎親方は、たいして損を被るわけじゃねえから、気楽だけどな。小日向屋さんは……)


 小日向屋と顔を合わせるのは、辰五郎以上に、気が重い。


 辰五郎の姿を目で追いながら、喜三郎は、大小屋の先にある、松の古木の下で、しばらく佇んだまま、動けなかった。



 辰五郎と入れ違いに、大小屋の前に駕籠が到着した。

 転がり出るように、小日向屋が降り立つ。


「喜三郎さん。丑之助さんが、知らせに来てくれたので、飛んで来ましたよ」


 小日向屋の顔色は、興奮で上気している。

 眉間の皺が、辰五郎との深刻さの違いを見せつける。


「このたびは……」


「喜三郎さん。見損ないましたよ」

 小日向屋は、喜三郎が言いかけた言葉を遮った。


「興行の世界で、名前の鳴り響いた、あの辰五郎さんのお勧めだったから、思い切って、喜三郎さんの金主をしてあげたのに。後足で砂を掛けられるとは、このことですよ」


 小日向屋は、口角泡を飛ばしながら、矢継ぎ早に言い立てた。


(黛花魁の人形を作る一件で、お互い、気持ちの触れ合いを、確かめられたように思っていたが。やはり小日向屋は、自分の都合ばかり大事にする、嫌な奴だったってえわけだ)


 小日向屋には迷惑を掛けてしまった。

 我が娘と信じる黛に、大いに注ぎ込むつもりが、当て外れに終わったのだ。


 小日向屋の気落ち具合は、想像がつく。


 小日向屋は、喜三郎が謝る隙も与えず、言い募った。


「喜三郎さんが、やり過ぎたから、このざまなんですよ。いくら、色気で客の受けを狙うったって、〝ほど〟ってものがありますよ」と、糞味噌に扱き下ろした。


「品の欠片もない人形に仕立てられた黛も、良い迷惑でしたよ。こんな詰まらぬことで、黛の人気が下がらなきゃいいですけどね」


 言い争う気力も湧かない喜三郎を前にして、小日向屋は、独壇場を続けた。


「辰五郎さんの見立ても、随分と、落ちたもんですよ」


 とうとう辰五郎のせいにまでする、荒れようである。

 よほど頭に来ているのだ。


「辰五郎さんも、あんな、素性の知れない蛇遣いの女なんかに狂うようじゃ、商いについての眼力も、すっかり鈍っちまうってもんですよ」と、あの辰五郎も形無しである。


「思えば、小日向屋さんとは、薄い縁だったな」


 喜三郎は、小声で呟いた。

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