「はあ、あの傭兵の」
「傭兵と誤認されがちだが、立派なフランス国軍のステータスがあるんで、正確には傭兵ではないんですな」
何が言いたいんだろう。その疑問を口にしようとしたとき、馬場は小さなビルの看板を指さした。
「定食屋だ。ここでいいですか」
俺は黙って頷いた。ただし、定食屋ではコーヒーはないかもしれない。
店内は数組の客が入っていた。繁華街ではないので、昼時でも席が埋まることはなさそうだ。こぎれいな店だった。馬場は焼き魚定食を頼んだ。俺はメニューを見てあんみつを頼んだ。
「ほお、甘党なんですな」
俺は黙っていた。こういう本題に関係のない話題に付き合ってやるほど機嫌がいいわけではない。
「ああ、そうか」
急にまた馬場は芝居がかった声を出す。
「あなたは中井にお住まいでしたな。では、この辺にはよく?」
無視したいのを我慢して俺は軽く嘘をつく。
「ランニングコースのひとつです」
本当は、この辺りにランニングに来たのは初めてだが、いかにも俺があの事件のことを気にしているように思われるのが、癪だったのだ。
馬場は料理が運ばれてくるまでの間、テーブルの上に両手を軽く組んで、右手の人差し指をとんとんと動かしている。顔は俺に向けて、意味ありげな表情を浮かべている。つくづく人に不快感を与える奴だ。
「俺に、訊きたいことってのは何なんです」
馬場の人差し指の動きを見るともなく見ながら、俺は訊いた。早く本題に入ってほしい。
「俺が何か後ろ暗いところのある人間だとでも?」
「まさか。そんなことは露ほども思ってません」
馬場は出された湯飲みの茶に口をつけた。
「お、薬茶ですな。うまくはないが体によさそうだ」
俺は黙って続きを待っている。
「神楽さんは、ごくまっとうな、まっとうすぎるくらいの人生を歩んでこられた方です」
嫌味か。
「一流大学を卒業され、今は西新宿の一等地で働いておられる。ルックスもいいし、その上スポーツもおできになる。私なんぞにはうらやましい限りですな」
俺の経歴をすでに洗っているということか。
「実際、どうなんです」
俺は話頭を転じた。
「あの事件、やはり暴力団絡みのものだったんじゃないんですか。でしたら、俺には全く関りがない世界ですよ」
「そこは今捜査中でして」
馬場は表情を変えない。
「ただ、どうもそういう類の裏社会の関係とは言い切れないような点もあるのですよ」
「というと?」
馬場はまた、ゆっくりと味わうように、湯飲みの茶を口に
含んだ。
「高田商会および高田社長にそういう裏社会とのつながりはまったく見いだせないんです」
「そうなんですか」
「組対、組織犯罪対策部のことですが、そちら方面ではまったく名も挙がったことがないし、現在調査中ですが、今のところ怪しいところは見あたらない。高田商会は業績も安定していて、きわめてまっとうな会社です」
俺は訪ねたときの雰囲気を思い浮かべた。素人目には、ごくふつうの会社に思えた。
「あなたも昨日、そう感じたのではありませんか」
何気もない調子で馬場が言うので、俺はかっとなった。
「何なんですか。見てたんですか。俺を張ってるってんですか」
「たまたまですよ。私も当然ながら、高田商会に聞き込みに参りましたので、そこであなたが出てこられるところをお見かけしたんです。昼休みだったんですかな」
俺は再び黙った。馬場は続ける。
「あなたは昨日はどういったご用事で?」
「俺が出ていくところを見たんなら、そのあとあの中野専務に俺のことも訊いたんじゃありませんか」
「いや、中野専務は何も言ってはいませんでしたよ。昨日たまたま現場に居あわせたので、興味があって見に来ただけだろう、と」
中野専務は俺の用件を馬場には伝えなかったということか。馬場がしらばくれているだけかもしれないが、本当に馬場に高田社長が最後に言い残した言葉があるということが伝わっていないのなら、その方がいいと俺は思った。
確かに、もし俺を張っているのだとしたら、昨日の歌舞伎町の一件も見ていた可能性が高いが、さすがに警察があれを見過ごすとは思えなかった。
「お待たせしました」
エプロンをした若い女があんみつを俺の前に置いた。そのややぎこちない手つきを眺めながら、この家の娘かもしれないな、などとぼんやりと思った。休日に店の手伝いをしているのかもしれない。俺は馬場には構わず、小さなスプーンをとって白玉を掬った。そんな動作まで馬場が注視していることに心の中で苦笑しながら。
すぐに、焼き魚定食が来た。香ばしい香りがする。
「ほお、旨そうだ。この値段でこれなら、なかなかいい店だ」
馬場はぽん酢を魚の横に盛られた大根おろしの上にかけ、箸をとった。
俺たちは無言でそれぞれのものを食べ始めた。食べながら話をするのは馬場は好まないらしい。
この時間のうちに、俺は頭を巡らせていた。馬場の用件は何だろう。俺に訊きたいこととは何だろう。
それから、馬場が何を言おうと絶対に話さないでおくことを決めた。高田秀俊の最期の言葉と、昨日の歌舞伎町の一件、そして、本橋涼子のことだ。昨日のチンピラたちのことは、ふつうに考えれば警察に届けても不思議ではない。だが、そうする気になれなかった。そもそも未遂に終わったことであるし、ますます俺が怪しまれてしまうだけだろう。そして何より、本橋涼子のことは口が裂けても言わないつもりだった。彼女を妙なことに巻き込みたくはないし、何より馬場のような人間に話すこと自体がそぐわない。
「何を考えてるんですか」
気がつくと、馬場はすでに食べ終えていた。何とまあ、早食いであることよ。
「別に」
俺は言い、正方体の寒天の残りを腹に収めた。
「俺に訊きたいことって、何です」
逆に訊き返した。馬場は粘っこい目つきをした。