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第9話

 少し迷ってから、通話ボタンを押した。画面には「本橋涼子」の表示。ずっとコールし続けたが、出なかった。留守番電話にもならない。俺は軽く息をついて、スマホをキッチンテーブルの上に置き、煙草に火をつけた。換気扇を回す。外の強い日差しが窓の隙間から差し込んで、ゆらゆらと上る紫煙を斜めに切り取っていた。

 禁煙しないとな、と思いながら深く吸う。

 馬場と別れてまっすぐ家に戻ったが、どうも落ち着かない。馬場はけっきょく、何を訊きたかったのだろう。周囲の不審な人物、すなわち共犯者を見たかという質問。おそらくこれはあの場に居あわせた人間すべてに、訊きうる限り訊いていることなのだろう。そして、めぼしい話は出ていないと思われる。

 次に馬場に訊かれたことの方が、緊張を強いられた。高田秀俊は何かを言い遺さなかったのか。これは予想もし、馬場には言わないと決めていた。少なくとも、家族に伝えるまでは、そうしようと思っていた。

 俺も正直、人ひとりが最後に遺した言葉をいつまでも他人の俺が抱え込んでいるのはどうかという気がしていた。中野専務から、家族に話はいっているはず。できるなら、早めに連絡をしてきてほしい。最期の言葉を、早く聞きたくはないのだろうか。

 そういえば、高田秀俊の葬儀はいつなのだろう。それが済めば、家族にも少しは余裕が生まれるだろうか。

 落ち着かず、2本目の煙草に火をつけたとき、スマホが振動した。

 煙草を落としそうになった。本橋涼子からだった。

「はい?」

 とっさの自分の声が上ずっている。頬に血が上った。

「神楽さんのお電話?」

 少し警戒していたのか、抑えたような彼女の声がした。

「そう。神楽です。昨日はどうも」

「ああ」

 彼女の口調が柔らかくなった。

「お疲れさま」

 いたずらっぽい声音になって返してくる。

「それで、何か用?」

 先にかけたのは俺だ。礼をしたいという趣旨をもう一度話す。内心心臓が跳ねていた。

「お礼ねぇ」

「そう、土日だし本橋さんの会社も休みかと思って、よかったら早い方がいいかと」

「残念だけど、土日は用事があるの。今日これから出かけるところなのよ」

「そっか、デート?」

 一番知りたかったことをできるだけさりげなく訊いた。

「違うわよ」

 では、何? 訊きたかったがぐっとこらえた。

「私の方はいいんだけど、神楽さんの気が済まないというのなら……」

 涼子は考えこむ。俺は待った。

「あ、待って。明日、日曜日の夕方なら調整がつきそう。5時くらいでどうかしら」

 胸が高鳴った。

「ほんとに?」

「ええ」

「いろいろ考えたんだけど、おいしいものがいいかと。本橋さんは何が好き? 和食とかイタリアンとか焼肉とか」

「ふふ」

 かすかな笑みが聞こえた。

「できたら、私に任せて。大丈夫。目の玉が飛び出るようなものにはしないから」

 電話を切ったあと、俺は放心していた。何で彼女を食事に誘えるかどうかでこんなに一喜一憂してるんだ。何かがおかしい。

 それから俺は、また着替えて外に出た。

 もう一度、下落合に行ってみるつもりだった。やはり、気になる。告別式がどこで行われるかなどむろん知らないし、日時も分からない。ただ、高田秀俊の家を見ておきたいと考えたのだ。馬場と遭遇する心配はもうないので、むしろ絶好の機会に思えた。今度は中井駅から一駅分、下落合まで乗った。土曜日の日中の電車は空いている。ふと、あの日、高田秀俊は西武新宿駅から電車に乗ろうとしていたのだろうかと疑問に思った。そこそこの会社社長が、電車通勤などするだろうか。ふだんは車を使っているのではないか。それも可能なら確かめてみようと思った。

下落合の長いホームの端に改札がある。俺は定期をタッチして駅の外に出る。駅前には小さなパン屋や喫茶店があるだけで、ほとんど何もない。新目白通りまででても、商店街といえるような場所ではない。角度の問題か、雲が出てきたのか、スカイツリーはもう見えなかった。

新目白通りを渡って下落合3丁目の区画に入っていく。高台があるので、坂がとにかく多い場所だ。適当に曲がりくねった坂を上っていった。

細い道路ばかりなので、車は中にはめったに入らない。ここに住んでいる人たちは近くの駐車場でも使っているのだろうか。

上に行くほど、高級そうな住宅が増えてくる。適当に家々の表札を眺めながら歩いていると、雑木林のような一角がフェンスで囲われ、それに沿って歩くと、「おとめ山公園」と古ぼけた字の表示板があった。

 緑と土地の起伏のせいか、どこか閉ざされたような感じがする場所だ。

 それでも土曜の午後ということもあって、奥の方から子供のはしゃいだような声がかすかに聞こえる。中には確か池があったはずだ。隣接して芝生公園もある。

 あてどなく歩くのも案外いいものだ。人通りはあまり多くはない。

 そうやって小一時間も歩いただろうか。ある区画から、グレーのスーツを着込んだ痩せた背の高い男が歩いて出てきた。

 すぐに分かった。中野専務だ。彼は俺が見ていることには気づかずに、目の前を横切って行った。急いでいるようなようすだった。

 彼が現れたということは、今日は少なくとも告別式ではないのだろうか。黒ではなくグレーのスーツを身につけていたのだから。そして、高田秀俊の家はこの近くだということになる。俺は中野専務が角を曲がって消えるのを確かめ、彼が歩いてきた方向に向かった。

 ひときわ大きく堂々とした和風の作りの家だった。敷地内には大きな樹木が茂っているところからすると、先祖代々の住処かもしれない。黒光りのする石造りの表札には確かに「高田秀俊」の名が刻まれていた。

 塀と樹木で家の様子はほとんど分からない。インターホンを押したい衝動に駆られたが、先方から連絡をよこすと言ってきている以上それはできなかった。

 あまり他人の家を覗き込むのはよくない。好奇心を抑えて帰ろうとしたとき、中から女性の声が聞こえた。

「美佳、出かけるの」

「ううん、なんだか落ち着かなくてお庭を歩くだけよ」

「そう」

 女性の声はほっとしたようだった。

「怖いから外には行かないでね」

「うん、分かってる」

 もう一人の声はいかにも若く、中学生か高校生くらいだろうという気がした。

 そっと見ると、細い人影が玄関らしい方から現れ樹木の茂る方へ消えた。一瞬だったが表情の消えた白い顔が見えた。高田秀俊の娘だろう。急に高田の死にざまが脳裏によみがえった。やりきれない気持ちだ。同時に後ろめたくなって、踵を返した。もと来た道を戻りながら、娘の名は「美佳」、「ミサキ」ではなかったと考えていた。ではあの母親の名だろうか。

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