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第10話

 中野坂上駅は青梅街道と山手通りとの広い交差点の真下にある。都営大江戸線と東京メトロ丸の内線が通っている。中井からは大江戸線ですぐだ。

 階段を上がって地上に出ると、交差点のうち3つの角は瀟洒で高いビルがそびえている。新宿に近く中野の雰囲気は薄い。ここが本橋涼子の指定した場所だった。

 5時というのは俺にとっては中途半端な時間で待つのがきつかった。間延びしたような日曜日を過ごしてしまった。出かける前にシャワーで汗を流し着ていくものに悩んだ。天然パーマの髪が膨れすぎないようにワックスで軽く固めて、カジュアルなシャツを選んだ。

 最近あまり格好に気を使っていなかった。1年と少し前に付き合っていた彼女と別れて以来、なんだかどうでもよくなっていたのだ。

 今の自分なら、飯田の相談にも乗ってやれるかもしれないな。

 適当に駅の出口を出て辺りを見回す。確か交番が角にあるハーモニースクエアで待っていると言われたのだ。青梅街道を挟んだ向かいの道路際の広いスペースの端に交番が見えた。眼を凝らすと、黒っぽいワンピースの女性が立っているのが見えた。

 彼女に違いない。

 俺は信号の変わるのももどかしく、彼女のところへ急いだ。

 彼女は俺を早々に見つけたらしく、そこに立ったままこちらを見て待っていた。

間違いなかった。一昨日出会ったのは夜だったので、今目の前にしている彼女とは少し雰囲気が違って見えた。今は日が長く5時はまだ十分に明るい。心の中でイメージしていたよりも彼女は血色のよい肌をしていた。けれど、見つめるその眼は見間違えようがない。

 彼女が笑顔を見せてくれたので俺は心底ほっとした。無理につき合わせるだけなのかという不安も心のどこかにあったのだ。

 黒いコットンのワンピース、生成りのブラウス。まるで学生みたいだ。薄化粧。それでもあんなに機転が利いて大胆なのだ。ただ清楚なだけでない不思議な光を放つ女性。

「この近くにいいお店があるのよ」

 思わず見惚れていた俺に、彼女が話しかけた。

「ついてきて」

 彼女は先に立ってさっさと歩きはじめた。目の前の交差点の信号が変わるのを待って渡りさらに直角に横断歩道を渡った。つまりさっきの地点の斜め向かいの角に出た。

 すぐに細道に入り、階段を降りた。小さな飲み屋が並んでいる。

「ここ」

 見ると古民家風の店があった。決して大きくはないが品がよい。いわゆる隠れ家的な雰囲気の店だ。

「天ぷら屋さんなの」

 なるほど、店内も落ち着いた和風の造りで感じがいい。

「ここは休日の方が空いているのよ。周りがビジネスビルばかりでしょう。だから」

「いい店だね」

 障子で囲われた座敷席に向かい合って座った。はじめて俺は彼女とこうやって向かい合っている心地よさを味わう。何か言わなければ。

「この店はあなたの行きつけ?」

「てほどでもないけど、疲れたとき、たまに来るのよ」

「厳しい仕事なの?」

「そうでもないけど、たまに、ね」

 店員が来た。

「やっぱり最初は生かな」

「最初はね。でも、この店なら日本酒が合いそうだ」

「正解」

 彼女は笑って生を二つ注文した。

 ジョッキのふちをカチンと打ち合わせて一気にごくごくと飲んだ。

 彼女ときたら、ほとんど一口に飲み干してしまいそうだった。

「お酒、強いの」

「まあね」

「親御さんのどちらかが強かったのかな。遺伝だっていうしね」

 彼女はジョッキを握ったまま俺を見た。

「分からないんだ、物心ついたころにはもうどっちもいなかったから」

 彼女はあっけらかんと言ったが、俺は焦った。まずいことを訊いてしまったか。

 なんと返そうか迷っている俺に彼女は微笑みかける。

「だいぶ前のことだし。ぼんやりとしか覚えてないから。気にされるとこっちが困っちゃうよ」

「あ、うん」

「それにね、家族ならちゃんといるから」

 思わずビールが逆流しそうになる。それはもう家庭を持っているということだろうか。

「卓也っていうの」

「え」

「弟の名前。私より三つ下なんだ。だから今年27ね」

 俺はもう一回ビールの逆流を押しとどめた。

「え、てことは本橋さんて30歳? あ、いや女性に歳を訊くのはあれだけど」

「うんそう、もうすぐ30になる。見えない?」

「年下だと思ってた」

 俺は正直に答えた。「俺、28だから」

 彼女はからからと楽しそうに笑った。

「本当? そういわれると悪い気はしないものよ。素直に喜んじゃうわ」

「いや、本当に素直に受け止めていいよ」

「私はね、生まれは山形なんだけど、育ったのは福島。両親が事故でいなくなってしまって福島の親戚の家に弟と二人預けられたの」

「そうなんだ」

「茨城との県境に近い南の内陸の方」

 あまりイメージがない。

「田んぼと山と雑木林……って感じの何にもないところよ」

 彼女の見かけからはそういう雰囲気はしなかった。言葉も訛っていないし清楚ながら垢ぬけた雰囲気もある。

「あなたは?」

 黒い瞳でまっすぐに俺を見る。内心たじろぎながら答えた。

「川崎」

「へえ、都会っ子なのね」

「いや、都会って言うか」

「通ってるの」

「いや、今はこっちに一人暮らし。中井に住んでる。あ、君は初台?」

 訊きたかったことを訊いた。

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